完璧な優等生像を保った、表向きの顔も。
世の中を斜に見て嘲笑う、裏側の顔も。
それでも、フルートを吹く時の彼だけは少し違う。
音色は表向きの顔に近い。完璧に綺麗で、優雅な音色。だけど、ほんの少しだけ、その音には陰りが混じる。
その陰りが裏側の顔からにじみ出るものなのかどうかは分からない。でも、その異質な陰りが含まれることで、彼の吹くフルートは、複雑な、不思議な魅力に満ちた音色になる。
(だから、大丈夫だと思ってた)
彼はおそらく香穂子以外の誰か……家族にすら、優等生でない自分の姿を見せてはいない。
徹底してると言えばそうかもしれないが、誰にも曝け出せない面がある……しかもそれが、自分の本心に近いものであるのなら、上辺の顔だけで取り繕って人生を生きることは辛いだろう。
……そんなことを言えば、あの先輩は「馬鹿じゃないの?」と、いつものように香穂子を嘲笑うのかもしれないけど。
本当の自分を、誰も知らないのは辛い。
本音を吐きたくなる時に、それを聞いてくれる人がいないのは哀しい。
だけど、あのほんの少し本心を曝け出せるフルートが、柚木を支えていてくれるのなら。
ほんの少し窮屈で辛い人生を生きる彼も大丈夫だと。
勝手に、思い込んでいたのに。
「ねえ、聞いた? あの話」
昼休みのエントランス。ふと耳に届いた聞き慣れた声に、香穂子は顔を上げる。上げた途端、誰にも分からないように微かなしかめっ面をする。聞き覚えがあるはずだ。それは、柚木親衛隊を取りまとめる、代表格の二年生たちだった。
何かと柚木に構われる香穂子を、あまり良くは思っていない連中だ。言い掛かりや、嫌味を言われることはしょっちゅうなので、苦手意識から反射的にいい顔が出来なかったのは仕方がないことだろう。
関わりあいにならないうちに早々にここから離れようと、教室に戻ろうとした香穂子の耳に届いたのは、思ってもみない言葉だった。
「ええ。柚木様、高校でフルートを辞めてしまうのですってね。大学は経済学部か、法学部の方へお進みになられるそうよ」
「まあ、柚木様の学力なら、それもおかしなことではないのでしょうけれど……でも、大きな舞台ではもうあのフルートが聴けないなんて、残念だわ……」
彼女たちの話はまだ続いていたけれど、香穂子は足早にその場を去る。これ以上聞いていても、その時の衝撃以上のものは出て来なかっただろう。
(柚木先輩が、フルートを……)
(音楽を、辞める)
不思議なのは、それを意外だとは思わなかったこと。
驚いたけれど、その事実は頑に否定するような種類のものじゃなく、香穂子の心にあっさり、すとんと落ちて来た。
……香穂子は、納得したのだ。
(だから、あんなに)
柚木の持つ雰囲気に、いつも付きまとう寂しげな空気。
優等生の時には、優雅な笑顔で、賑やかにいろんな人達に囲まれていて。
意地悪な時にも、怖いものなんて何一つないような、強気で偉そうな態度は崩れなくて。
どちらの顔にも、『寂しい』なんて要素は欠片ほどもないのに。
香穂子が見る彼は、何故か『寂しい』というものの欠片を、いつも握り締めているような人だった。
……フルートの音色に内在する陰り。
それもまた、彼の持つ『寂しさ』の表れなのだと思う。
だから、香穂子はあの音色を、柚木の本当の姿だと思っていたのだから。
(……全部、諦めてたから?)
音楽が好きな人なのだと思う。
それすらも、自分の立ち位置を確立するために必要なパーツの一部にしか過ぎないと、悪びれもなく言ってしまえる人だけど。
それでも、確かに。
あの人は、音楽を愛している人だ。
どんなに実力があっても、教師から見た印象がよかったとしても。
音楽だけは、嘘を付かない。
コンクール……それも、あの音楽を真摯に愛するファータが主催の、学内コンクールの出場者に選ばれた。それこそが、何よりの証拠だろう。
それほどまでに、音楽が好きなのに。
どうして貴方は、全てを初めから諦めているの?
「……柚木の家に生まれた時点で、自分の好きなように生きることなんて、諦めなきゃいけなかったんだよ。分かり切っていたことだから、今更どうということもないしね」
問い質した香穂子に、あっさりと柚木はそう言った。
小さな溜息と、苦笑い。本当に、諦めているのだと分かる。
ううん、違う。
「どうということもない」なんてこと、ない。
柚木先輩、今自分がどんな顔をしているのか、気付いてないの?
……何を言ってるのか、気付いてないの?
本当に『初めから』諦めているのなら。
幼い頃から決められた道を、歩いて行くだけだと達観しているのなら。
初めから、音楽という選択肢は、彼の中になかったはずだ。
心の中に存在しないものならば、『諦める』必要はない。
一度でも。ほんの少しでも。
『願った』からこそ。
『存在した』選択肢だからこそ。
柚木は『諦め』なければならない。
哀しくて、泣きたくなった。
……本当は、何が理由で泣きたいのか、香穂子には分からない。
柚木が音楽を辞めるから?
全てのことを、諦めているから?
……きっと多分、泣きたいのはそんなことじゃない。
(何も出来ないから)
『諦める』ことが、柚木にとって最良の選択なんかじゃないってちゃんと分かっているのに。
泣いても、嘆いても。
香穂子が何か、柚木が『諦めない』ためにしてあげられることなんて、一つも存在しないから。
ヴァイオリンを手にして。
少しだけ、不可能だと思えることを可能にする力を手に入れて。
強くなれたつもりでいたのに、所詮無力でしかいられない自分自身が、哀しいからだ。
「……お前が俺を哀れまなくても、いいんだよ」
涙を浮かべる香穂子に、苦笑する柚木がそう告げる。
俺のために、泣かなくてもいいよ。
お前が泣かなきゃならないような、大層なことじゃないからね。
いつも、意地悪で。
容赦なく正論を叩き付ける柚木が、その日だけ。
その一時だけ、優しかった。
柚木の存在の哀しさに。
自分の無力さに、泣く香穂子の頭を、そっと撫でて。
「……大丈夫だよ」と。
柚木は言った。
大丈夫なことは、何一つない。
柚木が失ってしまうものは、きっと彼にとってとても大切な。
とても必要なものなのに。
そして、そんな柚木に何もしてあげられない、無力な香穂子の存在をもまた。
優しく撫でて、大丈夫だと告げる。
もう諦めたのだからと優しい嘘で。
柚木は香穂子の無力さを許すのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.28】
「そんな瞳で僕を見ないで」の香穂子視点になります。私的に、何だかものすごく好きな話になったと思います(笑)甘やかすこととは違う柚木の優しさが書けたような気がします。
自己満足でしかないんだけど、切羽詰まってなかったら出て来なかった話でしょうね(苦笑)


