突然の訪問者に、教室内に、主に女生徒の黄色い歓声が上がる。
だが香穂子は、周りの雰囲気と馴染まない引きつった表情で、反射的に身を強張らせた。
教室の入口には柔和な笑顔を浮かべて立つ、柚木の姿がある。一見、コンクールを通してそれなりに親しくなった後輩に何か用事でも思いついて、何気なく訪れた行為のように思えるが、ただ用事があっただけ、という状況なら、柚木自身が足を運ばずに、自分が携帯で呼びつけられることを香穂子は重々承知していた。
「えっ……と、私、あの……そう、後の授業の準備とか……」
「ちょっといいかな?」
しどろもどろで何とか逃亡を計ろうとした香穂子だが、変わらぬ笑顔だが、かなり強めの口調で、思いきり言葉尻をかき消されて、そのまま何も言えずに、「……ハイ」と項垂れた。
「……何様のつもり?」
少しだけ人の気配が耐えた階段の下、ちょうど人がこっそり隠れるにはよさげなスペースで、先程の柔和な笑顔はどこへやら、苦虫を噛み潰したような不愉快さ全開の表情の柚木が、くるりと香穂子を振り返った。
「ええと……何のことでしょうか……?」
「おや、一人前にとぼけるつもりかい? さっき逃げようとした時点で、お前に心当たりがあるのは丸分かりなんだけどね」
にっこりと笑って柚木が指摘するが、その目が笑っていない。はは、と乾いた笑いを浮かべつつ、香穂子は視線を宙に泳がせた。
心当たりがある、と言えばある。
コンクール以後、香穂子という存在が目立つ立場にあったせいだろうか、やたらと異性からの告白を受けるようになってしまった。当然、相手が香穂子を知っていても香穂子自身は面識がないし、何よりも香穂子は、どういう因果なのかこの目の前の厄介な男に恋をしている。よって、その場で即行お断り、という流れにはなるのだが。
今日の昼休み、そうやって交際を申込まれ、断っている場面で柚木と遭遇した。香穂子も取込み中だし、柚木も相変わらず親衛隊の皆々様に囲まれていたから、特に会話を交わすこともなかったのだが、元々柚木は他人の雰囲気に聡いところがあるし、香穂子とその男子生徒が醸し出す雰囲気から、状況を読み取ったのだろう。
「昼休みの件なら、ちゃんと断りましたし……」
「それは当然だろうけど。お前には俺という男がいるわけだし。……ただ、告られるのは一度や二度のことじゃないだろう? 俺が知らないと思ったら大間違いだよ」
頬にかかる長い髪を指先でかき上げて、柚木が溜息をつく。……この人の情報網っていったいどうなってるんだろうと、内心香穂子が冷や汗をかいた。
「あの……でも」
確かに、そういう機会が多いことは否定しない。
だが、いつだってその場で断っているし、柚木に恥じることは、香穂子は何もしていないつもりだ。
見られていた以上、やはり何かを言われることは覚悟していたけれど、怒られるのは筋が違う。
「私が好きなのは、柚木先輩で。柚木先輩に顔向けできないことは何もしてません。だから……」
「……生意気」
ぽつりと柚木が呟く。
言葉だけを聞いていると、理不尽なキツい言葉に聞こえるのに、香穂子は思わず、瞬きをして顔を上げる。柚木の言葉に、あまりにも力がなかったから。
「……お前が、いい加減なことをしない、なんてこと。俺にだって分かっているよ」
それでも。
誰かが自分と同じ想いを香穂子に寄せて。
それを彼女に曝け出すという行為が、どうしても気に障る。
香穂子が柚木を裏切るかそうでないかの問題じゃない。
嫌なものは、嫌なのだ。
「……俺が、お前に『そう』したいと想っていることと、同じ欲望を持った男が、お前をそういう目で見るということ自体がね」
嫌なんだよ、と柚木が呟く。
「……でも」
そんなことを言われても。
どうしたらいいのか、香穂子には分からない。
「すっぽかして曖昧にしても、結局どこかで結論を出さなきゃいけないんだし。他に対処のしようがない気がするんですけど……」
真面目に考え込み、香穂子が首を傾げる。
そういう仕草もどうだかね、と内心溜息をつきつつ、柚木はそっと片手を上げて、香穂子の柔らかな曲線を描く頬に触れる。
「……柚木先輩?」
怪訝に尋ねる香穂子の声。
……本当は。
彼女がもっと、自分の魅力を理解して、他の男の目を引かないように努力してくれればいいと思うのだけれど。
柚木の計算ずくの人当たりのいい、誰からも好感を抱かれる仮面とは違って、彼女の場合は天然だ。結局のところ、柚木が惹かれたのも彼女のそんな部分なのだから、それをなかったことにするのは難しくて。
……ならば、その代替案は。
「……俺の機嫌を取りなよ」
滑らかな頬を撫でて呟くと、香穂子が目を丸くする。
「誰にも気付かれないように、見られないように、俺が喜ぶことをしてみせろよ」
「……自ら、先輩のおもちゃになる気はないんですけど!」
頬を赤く染める香穂子が、精一杯の強がりで言い返す。わかっているくせに、と柚木が笑った。
「俺を喜ばせるのが、お前には馬鹿みたいに簡単なことだって……本当は、知っているだろう?」
物陰で。
他の誰にも見られずに。
香穂子が柚木に向ける。柚木にだけ、与える。
曇りのない愛情を。
柔らかく、唇を触れ合わせて。
啄むように、何度も何度も、触れて離れて。
潤む瞳で一つ瞬きをした香穂子が、もう一つ、おまけみたいに柚木の唇に、触れるだけのキスを与えて。
我に返って、照れて俯いた彼女の頭を、掌で撫でて。
満足そうに笑う柚木が、優しく呟いた。
「……よく出来ました」
「……っていうか、毎回、何かあったら、これやらなきゃいけないんですか!?」
雰囲気に流されて、うっとりと酔っていた香穂子が、不意に我に返って、自分に与えられた義務の事を理解して、柚木を振り仰ぐ。
ちょうどいい角度で柚木を見上げた香穂子の唇に、更におまけで、可愛らしい音を立てて、柚木がキスをする。
「当然」
不敵に笑う柚木に、香穂子は悔しそうに唇を噛み締めて。
いろんな感情を混ぜ合わせて、その思いの導くまま。
あまり痛くないようにと気を使いながら、物陰で柚木の足を、勢いよく踏み付けるのだった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.15】
あっはっは! 楽しかったですよ!(イイ笑顔)
柚木は振り分けられたお題から、結構重めの話を書かなきゃいけない気がしていたので、軽く書けるところは思いきり躊躇なく軽いものを書きました。しかし、柚木が相手だとうちの香穂ちゃんは負けん気が強いな(笑)
性格の設定は統一させているのですが、相手キャラによって違う反応をするので書いてて面白い。


