赤面注意報

柚木→←日野

 柚木の与える一言に、怒ったり、ムキになったり。
 日野香穂子という人物は、感情全開で柚木のやることなすことに突っかかって来るから面白い。
 例えるなら、思いきり壁に向かって投げ付けるゴムボールみたいな。跳ね返らなければ楽しくないし、あまりに真っ当に予想どおりの場所に返って来ても、それはそれで楽しくない。
 柚木が予想する以外の場所へ、思いがけなく、意外な力で跳ね返って来たりするから、そのくるくる変わる様が見ていて楽しい。
 つまりは、所詮お前は俺の玩具レベルなわけだよ、と結論付けたら。
 もうちょっと人に害のない玩具をどっかで見つけて来て下さいと、からかわれた怒りに真っ赤になった香穂子が大声で叫んだ。



「……どうしたの? それ」
 屋上のベンチで、肩で息をしながら座り込んでいる香穂子を柚木は見つけて、歩み寄る。ふとその足に目を止めて顔をしかめると、はあ、と大きな息を付いて柚木を見上げた香穂子は、そもそも先輩の所為ですよと、じとりと柚木を睨み付ける。
 腰掛けた香穂子の露になった右の膝小僧に大きな擦り傷が出来ていた。あまり負って時間の経っていない傷なのだろう。砂がまだこびりついて、鮮やかな血の色が滲んでいた。
「痛いくせに、わざわざ階段上がって来るなんて、真性の馬鹿だね。どうして保健室へ行かないの」
「だから、柚木先輩の……っていうか、柚木先輩の親衛隊の皆様方の所為なんですってば!」
 柚木様に気安く近付かないで。
 親衛隊は、きちんと規律を作って、その中で行動しているのに、抜け駆けされちゃ困るのよ。
 ……柚木と知り合って以後、その本性を知らされ、勝手に玩具扱いされ、やたらと構われるようになってから、耳にタコができるくらいに聞いた言葉。何とか香穂子から柚木にはもう近付かないという言質を取ろうと、気を抜けば彼女たちは集団で香穂子を追いかけ回す。
「……で? 逃げる途中ですっ転んでこのザマなわけ?」
 腕を組んで香穂子を見下ろす柚木が、呆れたように言う。自分のドジを一応承知している香穂子は、不機嫌そうな表情ながらも、素直に頷いた。
「これ以上は走るの無理だし、保健室なんかでのんびりしてたら、また見つかっちゃうから……」
「……だから、俺のいそうなところに来たというわけか」
 あれだけの人数で校内を探せば、最終的にはこの屋上にも追っ手が来るかもしれないが、ここにいれば、少なくともものすごい迫力で追いかけ回されることはない。彼女たちが一番そういう醜態を晒したくはないであろう柚木の存在が、ここにはあるからだ。
「だからと言って、その傷をそのまま放置するのもどうかと思うけど? たかが擦り傷といって馬鹿にするものじゃないよ。傷口からばい菌が入り込めば、そのばい菌が血管を通って内臓まで辿り着き……」
「やーめーてーっ! 嘘だと分かってても、柚木先輩が言うと何か怖いから、止めて下さい!」
 淡々ともっともらしい『擦り傷の危険性』について語る柚木を、香穂子が真っ赤になって両手で耳を塞ぎながら、大声で遮る。
 ……こういう、彼女の一連のリアクションが飽きない。
 柚木にはない、素直さだから。
「……ま、冗談はさておき。そんな汚れた傷口を、大したことないからって長い時間放置するのがよくないってのは間違いないんだよ」
 溜息混じりに言いながら、柚木は香穂子の前に回る。その場に膝を付いて、片手を香穂子に差し出した。
「な、何ですか?」
「水。お前、いつも持ってるだろ?」
 香穂子が持ち歩くバッグの中に、水のペットボトルを常備していることを柚木は知っていた。あ、と思い付いた香穂子がごそごそと自分の荷物の中を探った。待っている柚木の差し出された掌に、半分以上残ったままの水のペットボトルを乗せた。
 柚木が、躊躇なく香穂子の怪我をした方の足を、ひょいと持ち上げる。香穂子が悲鳴を上げる間もなく、靴を脱がせて自分の膝の上に足を乗せてやると、中空に真直ぐ伸びた状態になる膝小僧の傷口に、水を遠慮なく一滴残らずぶちまけた。
「冷た……っ!」
 もう、買ってからそれなりの時間が経っているが、それでも突然足にぶちまけられた水の温度は冷たい。反射的に香穂子が悲鳴をあげると、我慢しろ、と柚木の低い声が呟いた。
「全く、無茶するよ」
 呆れたように言いながら、柚木は自分のハンカチで丁寧に濡れた傷口を拭う。ぶちまけた水の勢いで、砂はあらかた流れ落ちていて、綺麗に洗われた真新しい傷口が、とても痛々しい。
(……そうだね。お前の言う通り。お前が傷付くのが俺のせいだなんてこと、とっくに俺も分かっているんだよ)
 だけど、今更この玩具を手放せない。
 ……彼女がもう自分にとって、ただの玩具なんかじゃないと、柚木自身が一番知っている。
 それでもまだ。
 この本心は知られたくなくて。
 自分が、彼女にいい印象なんてこれっぽっちも持たれていないのだと、嫌と言うほど分かっている。からかって、いじめて、親衛隊連中のやっかみの的にして、面倒事に巻き込んで。好かれることなんてしていないと自分自身でそう思う。
(だけど……決して傷付けたいわけじゃないんだよ)
 柚木の事で、『心』を傷める彼女なら、それは悪くはない干渉だと思うけれど。
 こういう本物の傷を負わせることは、柚木にとっても不本意だ。
「……それなりに、あいつらには上手く、追いかけ回したりははしないように言っておくよ」
 そう、告げて。
 柚木は、いろんな懺悔の意味も込めて。
 身を屈めて。
 ……香穂子の傷口に恭しく口付ける。
 舌先に広がる、甘い錆の味。

「先輩……っ」
 焦ったような香穂子の声。
 消毒だと分かっているからなのか、戸惑ってはいるけれど、柚木を止めようとはしない。
 ……一応、巻き込んだ責任として、彼女に詫びたい気持ちはあるのだけれど。
 懺悔したい気持ちはあるのだけれど、ついつい彼女の反応を見るために、悪戯心で振る舞ってしまうのは、自分の性格上仕方がない。
 丁寧に傷を舐めて、汚れついでに、砂を払った自分のハンカチを、あとでちゃんと消毒しろよと言いながら、彼女の傷口に巻き付けて。
 いつの間にか、黙り込んだ彼女をつついて、真っ赤になって「いきなり何するんですか!」と叫ぶであろう彼女の反応を楽しんでやろうと、柚木は顔を上げる。
 「もしかして、意識した?」なんて、からかいながら身を起こして、笑って香穂子を見る。
 いつものように、顔を真っ赤にして怒るであろう彼女の顔を。
 だが、柚木の視線の先にいたのは。
 口元を手の甲で覆いながら、柚木を見上げた香穂子は。
 ……確かに、真っ赤にはなっていたけれど、その顔は、想像していたような怒りの表情じゃなくて。
 今にも泣き出してしまいそうな、そんな表情。

「あのっ……ありがとう、ございました!」
 先に我に返った彼女が、その場にあった自分の荷物をまとめて、すっくと立ち上がる。あ?……ああ、とどこか心ここにあらずの状態で柚木が答えると、香穂子は真っ赤な顔で俯いたまま、ぺこんと頭を下げて、その場から走り去った。

 重い鉄製の扉が閉まる音。
 その後、彼女のちょっと不規則な足音が階段をかけ降りて行く音が聴こえて。
 ……怪我をしているのに、走って行くなんて馬鹿じゃないの?と。
 遅れてそんな感想がやって来た。

 素直に感情を露にする彼女は、自分のことをからかう柚木の事を、いつも怒っている。
 柚木が記憶する、頬を染める彼女の表情は、そんな怒りの表情しかない。
 だけど、今のは。
 いつもの表情とは違う。……それだけは、分かる。

(まさか、……ね)
 自分の脳裏に浮かんだ考えを、柚木はふるふると首を横に振って否定した。
 肯定する材料はない。否定する材料は山のようにある。
 ……例え、あの表情が。
 あの、頬の色が。
 自分に告白して来る、数多の女性たちと同じ色をしていても。
(まさか、俺の事を好きだなんてことはないよね?)
 期待することは、嫌いだ。
 今まで、その期待が叶えられたことは、柚木の人生の中で、ただの一度もなかったから。


「柚木様、どこにいらっしゃったんですか?」
 黄色い声を上げて、駆け寄って来る音楽科の制服に身を包む数人の女生徒。
 名前は何だったっけ?と柚木は自分の脳内の、人物名のデータベースを捲る。数秒の早さでそんな脳内処理をしていると、その名前を導き出す前に、相手の方が心配そうに自分の方を覗き込んだ。
「……柚木様、体調が優れませんの?」
「どうしてだい?」
 意外なことを言われ、柚木は訝しげに片眉を上げる。だって、と戸惑い気味の女生徒が、呟いた。

「お顔が、赤いですわ」

 自分ではコントロール出来ない恋心は。
 容赦なく、その揺れ動く様を、表面に浮かび上がらせるから。

 その本心を知られないように。
 赤くなる頬には要注意。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.27】

これもいつもはしない書き方をしましたね……
木日で両想いの自覚なし設定で書くのは初めてかもしれないです。
香穂子はともかく、柚木の方が香穂子の想いに気付くだろうから、そういう図式がなかなか想像付かないってことなんですが(笑)

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