欲しいものは、全部残らず拾って行くと心に決めた。
きっと、それは容易い道なんかではないけれど。
フルートをこれからも続けて行くと告げた時、香穂子は「うわあ」と頬を上気させて笑顔になって。それから、「あああ」とがっくり肩を落として突然しょげた。相変わらずオンオフの起伏の激しいヤツと、柚木は喫茶店のテーブル越しの彼女の姿を、頬杖を付いて観察している。
「何しょげてんの。こういう時お前は、『さすがです、先輩』と、俺の一世一代の覚悟を誉めたたえるべきだろう?」
軽く笑いながら、頬杖を付いたまま、空いている片方の手でコーヒーのカップを引き寄せ、湯気の上がるそれを口元へと運ぶ。そんな些細な仕草ですら、洗練されている人だ。
「さすがです、先輩」
「……俺の台詞をなぞるだけじゃ、独自性と言うものがないね」
ソーサーの上にかつんと小さな音を立ててカップを下ろすと、その手を伸ばして柚木は香穂子の鼻先を曲げた人指し指と中指で、ひょいと摘む。いひゃいいひゃいと、香穂子が空気の抜けるような悲鳴を上げた。
「変にハードル上げるの止めて下さいよ。そうそう先輩の期待どおりの面白い返事なんて、できないんですからねーっだ」
指先で少し赤くなった鼻を擦り、上目遣いに柚木を睨んだ香穂子が、駄目押しとばかりにべーっと舌を出した。子どもかい?と柚木が呆れたように笑った。
「……で、何をしょげたの?」
脱線しかけた先程の会話の続きに戻り、視線を伏せながら柚木が尋ねる。少し冷めて熱さが落ち着いたカプチーノのカップを両手で抱え、香穂子があ!と思い出したように声を上げた。
「……それって、例のお祖母さんは納得して、ないんですよ、……ね?」
恐る恐る、伺うように尋ねた香穂子に、柚木は非のうちどころがない完璧な笑顔で即答してやった。
「フルートを続けますと言った途端に、手加減なしの平手打ちを食らったよ」
おかげさまで、柚木の綺麗な曲線を描く精悍な頬には、引かない熱の残滓がまだ少し痕になって残っている。「あああああっ」と再度香穂子が悲鳴を上げて、頭を抱えた。
「そ……ですよね。やっぱりあっさり笑って「頑張れ」って言ってくれる展開はナシですよね」
「予想どおりだから別に驚きもしないけれどね。逆にあっさり「どうぞ」なんて言われたら、明日どんな天変地異が起こるのかと疑ってしまう」
真顔で言う柚木が可笑しくて、思わず吹き出しそうになった香穂子だが、両手で口元を押さえてすんでのところでそれを押さえる。それくらいに柚木が祖母に音楽の道へ進むことを許してもらえるはずがないと思っているのだから、ここは香穂子が冗談にして笑っていいところじゃない。
「……でも、そっか。……まだまだ前途多難なんだ……」
柚木が諦めたくない選択肢を、捨てないでいてくれたことは嬉しい。
だけど、それは諦めないと決めたところで綺麗に終わる、美しい物語なんかじゃない。本当に柚木が苦しいのは、むしろこれからだ。
「……香穂子」
低い声で、柚木が香穂子の名を呼ぶ。はい?と分からずに香穂子が応じた。
「まさかお前。……他人事で済ますつもりじゃないだろう?」
綺麗に磨かれたテーブルの表面をかつんと指先で叩き、柚木は不敵な笑みを浮かべた。
(誰の所為だと思ってるの)
穏やかで、ぬるま湯みたいに居心地がいい。
何も考える必要がなかった、用意された自分以外の誰かに決められた人生。
そのぬかるみに嵌まって、四肢の自由を奪われて。だけど何一つ不自由することはなく。
波風も立つことがない、だけど自分の意志では指一つ動かせない、つまらなくてくだらない、ある意味平穏な人生を生きて死んで行くと、これっぽっちも信じて疑わなかった。
別の道を示したのは、目の前の存在。
ぬかるみに沈んで行こうとしている自分に、手を差し伸べた。
面白がって、戯れに掴んだその手は、本当に柚木をそのぬかるみから引きずり出した。
感謝しているよ。
困難が多いけれど、起伏に飛んで、きっと苦悩すら楽しく思えるであろう先の見えぬ道。
そこに導いてくれたお前に、感謝している。
だけど。
感謝だけで終わる俺でもないだろう?
「……当然、お前を巻き込むよ」
それは、香穂子が存在しなければ。
香穂子が示さなければ、見ることもなかった道。
……香穂子がいなければ、辿ることはない道。
この道を歩くと決めた以上、傍らには香穂子の存在が必要不可欠のもの。
だから彼女には。
この困難な道を歩くのに、否応なく付き合ってもらう。
「覚悟は、いい?」
にっこりと。
いつもの上辺だけの綺麗な笑みでも。
自分以外の愚かな存在を嘲る笑みでもなくて。
少しだけ、悪戯心を混ぜたような。
明るくて、曇りのない笑みで、柚木はそう尋ねた。
(そっか……)
香穂子自身に実感はなくても。
この笑顔を自然に浮かべるようになるために、もう柚木の中でないものになっていたあの選択肢を手にすることは、彼にとって無意味なことじゃなかった。
……香穂子だって、無責任に諦めないでと彼に訴え続けて来たわけじゃない。
何が出来るかなんて分からない。
香穂子に出来ることが、彼のこれからの人生に、何らかの力になれるなんて自惚れない。
だけど、柚木が自分の人生に香穂子を巻き込むと言う。
これからの困難で、多難で……それでも、少しだけ自分自身で方向性を決めて、胸を張って選んで行く自分の人生に、香穂子が必要だと言ってくれる。
そんな魅力的な申し出を、頑に拒否出来るほど。
香穂子だって、無欲な女じゃないのだ。
「……当然!」
言葉にすることは怖いけれど。
それでも、この心を柚木に疑われないようにはっきりと口に出せるくらいには。
香穂子の覚悟だって伊達じゃない。
「柚木先輩と生きる覚悟、決めてます。幾らでも、巻き込んじゃって下さい!」
道は決して平坦じゃなく。
ここで行く先を決めたからと言って、最後まで選んだ道を歩いていけるわけじゃない。
それを邪魔したい、横道へ反らせたい人間は沢山いて、予想外の横槍を入れて来ることだってあるのだろう。
でも、それを全く頭に置くことなく、指差した道じゃない。
全て分かっていて。それでも諦められなくて。
そうして選んだ。
音楽と。
そして……目の前の存在と。
共に歩んで行く道。
そんな幸福で、楽しい人生を歩むためならば。
それがどれだけ無謀であるのだとしても。
迷いなく覚悟を決めてやるのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.28】
私的な理想の木日ですかね。若干本誌のエピソードを交えつつ。柚木と香穂子だと会話の流れが面白くなるなーと思ってます。
ボケとツッコミ!(大笑)実は甘くはないけど「軽い」の第三弾でした(笑)
両想いになってからは、あまり暗い考え方をこの二人にして欲しくないんですが、これ、裏行きになる話を書くと、渡瀬の場合こう……下降線な話を書いてしまうんですよね……


