携帯に届いたメールを一読して、柚木は片手でその二つ折りの携帯を閉じる。発信相手は柚木家お抱えの運転手で、突然降り出した強い雨の所為で、道路が酷い渋滞になってしまい、学院に着くのが指定の時間よりも遅れてしまうとの内容だった。
スケジュールが思惑通りに進行しないのは、若干苛立つ気分を抱かせるが、相手が天候である以上悪態をついても虚しいだけだ。小さな溜息をついて、柚木は突然出来た短い空白の時間を、どう過ごすかを思案する。
(練習室は空いてないだろうし、屋上は練習出来る状態ではないだろうし……せいぜい、図書室で受験生らしく勉学に勤しむのが関の山か?)
賑やかな場所に行けば煩わしい女生徒達に囲まれるのが目に見えているし、迎えの車が到着するまでという中途半端な時間だから、何か大々的なことができるでもない。限られた選択肢の中から無難なものを選び出して、柚木は図書室の方向へ爪先を向ける。
そして、歩き出した視界の先に、見知った姿を見つける。
片手にヴァイオリンケースを抱え、困ったように窓の外を見つめる普通科の制服。……日野香穂子だ。
一瞬、どっちの自分で声をかけるかに迷って……周りに人の気配がないことをいいことに、飾らない自分の方で、柚木は口を開く。
「おい、……香穂子」
弾かれたように、香穂子は柚木の方を振り返る。伺うように首を傾げると、柚木の長い髪が肩からさらりと流れるように落ちる。
「帰れないのか?」
「あ、はい。……いえ、傘はあるんですけど。凄い雨だから、ちょっと小降りになってからの方がいいかなって」
これがあるから、と香穂子はヴァイオリンケースを掲げてみせる。成る程ね、と柚木が頷いた。
「もう少し待てるなら、車に乗せていってやるよ。……もっとも、渋滞しているらしいから、どれくらいで帰れるかは、俺にも分からないけれどね」
「本当ですか?」
苦笑して柚木が言うと、香穂子が顔を輝かせる。
ああ、いい暇つぶしが見つかったと、内心柚木も安堵の息をついた。
特に行くあてもないので、そのまま二人、廊下の片隅に肩を並べて、窓に叩き付ける雨の雫の流れる様を見つめている。
それ以上、どこにも行けず、帰ることも出来ず。
ただ、立ち尽くしていつか帰れる時を待つしかない自分たちに、ふと柚木が小さく笑った。
すぐにそんな柚木の様子に気付いた香穂子が、ちらりと視線だけで柚木を見る。
「……何ですか?」
柚木の含み笑いは何を企んでいるのかが分からなくて得体がしれない。こわごわと尋ねる香穂子に、ああ、と応じながら頬にかかる髪を、柚木の長い指がかき上げた。
「お前、『遣らずの雨』って知っている?」
突然の問に、香穂子は驚いて目を丸くする。自分の日常生活ではおよそ聞き慣れない言葉に、訝しげに眉間に皺を寄せて、「……何ですか?」と同じ言葉を繰り返した。「無知」と柚木がまた笑う。
「訪れた人の足を引き止めるように降る雨の事だよ」
香穂子を嘲りつつも、あっさりと丁寧に教えてくれた柚木の言葉を、香穂子はゆっくりと噛み砕くように理解する。
「……ああ、そっか」
こういう雨のことですね、と香穂子が、指先を窓の外に向けて、苦笑いをした。
どこにも行けず。帰ることも出来ず。
訪れた人を、『ここ』に引き止めるために、強まる雨足。
……別に自分が色々なことを計算尽くの上で行動をしているからといって、さすがに天候や道路事情までを操れるわけでもないのだけれど。
確かにこの雨は、柚木にとって都合がいい。
ちらりと視線だけで傍らの香穂子を見る。
特に不快そうでも、困惑したふうでもない真直ぐな瞳で、窓を濡らす雨の跡を追う。
ただ、前を見る視線が、柚木には心地いい。
「……!」
香穂子が小さく息を呑む。そろそろと、自分の身体の線に沿って下ろした、ヴァイオリンケースを掴んでいない方の手を見る。
そこに、空を探るようにして伸ばされた柚木の手が触れている。長くて、綺麗な。繊細そうな指先。
香穂子は何かを言いたげに、唇をわずかに開いて。
それから、何も言わずに、ただ唇を引き結ぶ。俯いて、緩く微笑んで。それから、柚木の手をそっと握り返した。
他の誰もいない廊下で、二人きり。
緩く手を繋いで。……ただ、それだけ。
遣らずの雨に引き止められた二人の時間は、柚木を迎えに来る車が辿り着くまでの、ほんのわずかな空白でしかないけれど。
何も話さない沈黙は、窓を叩く雨の音が埋めて。
実感するのは、手と手を繋いだほんの少しの重なり合った部分から伝わる、優しい熱だけ。
それでも、その突然降ってわいたような、貴重な短い時間こそが。
柚木にとって、何よりも穏やかで。
何よりも、幸福な時間になる。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.10】
甘いか重いか両極端だった柚木創作の中で、唯一ものすごく感覚的にほのぼのーとする話を書いたかと思います。
月森の「二律背反」に続き、辞書のお世話になった話でもあり(笑)いや、本当に勉強になりますね。
自分が考えるなら絶対に出て来ないタイトルだ(笑)


