綻ぶ笑顔

加地→日野

 つまずいてしまったことは、誰にも知られたくなかった。
 決して恥じることじゃないと分かっていた。それくらいの小さな挫折は、誰だって一度や二度、経験しているものだろう。
 だが幼かった自分は、最初の挫折で全ての道を閉ざされた気がしていた。
 哀しいくらいに正確に音を拾い上げる聴覚が、その絶望に輪をかけた。
 ヴァイオリンを諦め、ヴィオラを新たに手にした時も。
 心のどこかで、本当は自分が逃げているのだと知っていた。
 これ以上、傷付きたくない、絶望したくない。
 そして、そうしてマイナスの感情に捕らわれる自分を、誰にも知られたくない。
 だから、笑う術を身に付けた。
 ……いつしか、そうして笑っていることで、自分自身の心さえ騙し始めた。

 もう、気付くことすら出来なくなっていたんだ。
 何気なく浮かんで来る自分の笑顔が、一番辛いことから、目を反らすためのものであるということに




「加地くん」
 演奏を終えた香穂子が、観客の輪の中に加地の姿を見つけて、大きく手を振った。
 小さく手を振り返してそれに応え、加地が香穂子に歩み寄る。
「どうかな? 少しは上達してる?」
「上達してる、なんてもんじゃないよ。またより一層、素敵な音色になったんじゃない?」
 先程の笑顔を消して、不安げに加地を見上げた香穂子に、90%本気、10%冗談くらいの割合でそう言うと、「加地くんは、すぐそうやって上手いこと言うんだからなあ」と彼女は困ったように苦笑した。
「ひどいなあ、信じてくれないの? これでも僕は、いつだって本気で君を誉めてるんだよ?」
 ふふっと笑いながら加地が肩をすくめると、香穂子はだって、と少し頬を膨らませた。
「加地くんってば、いっつもそんな調子なんだもの。嘘を言われてるとか、はぐらかされてるとは思わないけど、リップサービスが混じってるのかなくらいは疑っちゃう」
 加地は、その香穂子の言葉に答えず、ただ小さく、苦く笑って、視線を伏せる。
 唇を噤んで、ぱちりと一つ瞬きをした香穂子は、何だかバツが悪そうに、俯いた。

(ああ、ごめんね。君が悪いんじゃない)
(ただ……きっと。それは君の言う通りだから)

 彼女の音色に、おざなりのリップサービスを贈る気はない。
 嘘を言ったり、その場限りの綺麗事を告げているわけでもない。
 だが、確かに疑われても仕方がない。
 加地の笑顔は、純粋な、混じりけがないものではないから。
 人には晒したくない部分を上手に、悟られずに隠すために。
 加地が身に付けた、仮面のようなものだから。

「……加地くん」
「……あ」
 気遣わしげに加地の名を呼んだ香穂子の声に、加地ははっと我に返る。慌てて香穂子を見下ろすと、ケースの中にヴァイオリンを丁寧にしまった香穂子が、上目遣いに加地を見ていた。
「あ、ごめんね。僕、ちょっとぼうっとしちゃって……」
「加地くん」
 言いかけた加地の言葉を、意外に強い口調の香穂子の声が遮る。反射的に言葉を呑んだ加地は、ややして「……はい」と小さく応えた。
「あのね。……ちょっと真面目な話をするから、座って聞いてくれる?」
 ベンチの上のヴァイオリンケースを取り上げ、香穂子は加地のためのスペースを空けてくれて、平手でぱしぱしと表面を叩いて、座るよう加地を促す。訳が分からないながらも、加地は大人しくその場に腰を下ろした。
「……どんなふうに話せばいいのかな」
 自分から誘っておいて、香穂子はしばし切り出す言葉に迷う。両膝の上に拳を付いて、彼女が話し出すのを根気良く待つ加地に、やがて何事かを納得したのか、香穂子が一つ、頷いた。
「あのね。私は遠回しに言ったりするの、苦手だから。単刀直入に言わせてもらうんだけど」
 真面目な表情で切り出した香穂子に、加地は思わず居ずまいを正して息を呑む。どう考えても、この切り出し方は、自分という存在が疎まれていることを告げられるのだと思わずにはいられなかった。
 だが、次に香穂子が加地に告げた言葉は。
「加地くんには、感謝してるんだよ」と。
 加地が想像したものとは、真逆のベクトルを持つ言葉だった。

「……え?」
 ぽかんとした加地が、思わず尋ね返す。俯いて、自分の爪先を見つめている香穂子が、その爪先をぶらぶらと揺らした。
「加地くんが、無条件で私のヴァイオリンが好きだって言ってくれるから。いつも、救われてるの。……まあ、あんまりべた褒めだから、照れくさくて、恥ずかしくて。……上手く返せてないんだけど」
 香穂子のヴァイオリンは、横道から不当に始まったのだということは、香穂子が一番良く分かっている。
 魔法のヴァイオリン。あの存在があったから、今の香穂子があることは疑いようがないことだ。だが、それでも周りの音楽に携わる人々が、真摯に、純粋に音楽に向き合っている人達ばかりだからこそ、その『魔法のヴァイオリン』という存在に、香穂子は時々、……いまだに息苦しくなることがある。
 あの頃の香穂子の音色に焦がれて、香穂子を追ってこの学院に来たという加地の存在は、香穂子にとって、初めは確かに重荷だった。だけど、今の香穂子の音色すらも、「あの頃と何一つ変わっていない」と受け止めてくれる加地の存在は、今では香穂子の拠り所の一つだった。
「ありがとう。加地くん」
「……日野さん」
 綻ぶ笑顔。
 その笑顔に、少し前まで、いつも彼女を蝕んでいた罪悪感がない。
 それは、確かに。
 加地という存在が、香穂子の音色を支えていることの証。

「……そんな、僕の方こそ……」
 どうしよう。
 泣きそうだ。

 加地の劣等感を、彼女は知らない。
 何よりも欲しいものこそが、いつも加地の手には入らなくて。
 その現実が痛くて、苦しくて。
 誰にも悟られぬよう、心の一番奥深くに、その瑕を埋めてきた。
 少しでも、それを表に晒してしまえば、そこで自分が負けてしまう気がして。
 全てを綺麗で優しい笑顔の裏に隠し通してきたんだ。

 だから、彼女の音色を愛おしむ加地の姿だけが。
 今の加地が他の誰かに見せられる、たった一つの真実。

 誇れるのは、自分の音の未熟ささえも冷静に分析してしまう聴力。
 繊細な聴覚が拾い上げた、綺麗な……綺麗な、加地の理想の音色。
 その理想の音色を、自分の手で守り、支えていくために、加地は今、この場所にいる。

 自分には、彼女と並び立てるほどの音楽の才能はなく。
 迷う彼女を導くことも、隣に寄り添うことも出来ない。
 それでも、こんな自分でも。
 どんな形であれ、彼女の支えになれるなら。

「……こんなに嬉しいことはないよ。……僕の方こそ、ありがとう、日野さん」
 そう呟いて、微笑んだ加地の。
 その綻んだ笑顔が。
 今まで見た加地の、どの笑顔よりも。
 優しくて、穏やかで。
 一点の曇りもないものだったから。

 何だか、香穂子の方も。
 胸が熱くなって。
 ……唐突に泣きたくなってしまった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.6】

もうちょっとほのぼのした話が書けるはずだったのに、何故か重くなる加地。
コンプレックスと言いますか、普通に楽器弾けるだけですげえじゃんか!と、そっち方面の才能が皆無な渡瀬なんかは思いますが、理想が高い分加地は中途半端に自分が生き延びれる道を探すことが出来なかったんだろうなと思います。ある意味オールオアナッシングな人ですな。

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