心のどこかで、知っているから。
幸せ過ぎると怖くなるんだと加地が言うと、香穂子は不思議そうに首を傾げる。
その手に抱え込める程度の、ささやかな幸せしか手にしたことがないんだねと、加地は笑う。……それは、香穂子を嘲るのでも、責めるのでもなく。当たり前のことを再確認したような気持ちで、その事実は加地の心の中にすとんと落ちて来る。
……好きになった人に好きになってもらえること。
とても単純だけれど、実際叶えるにはちょっとだけ難しい。
こちらからの一方的な想いだけでは、完成しない図式だから。
それでも、「そんなの、その辺に一杯転がってる、普通の関係だよ」と彼女が言うことも、決してデタラメなんかじゃない。
(君が、僕の憧れたもの、そのままの音色を持っていることが奇跡なんだ)
そして、彼女という人間が、その音色のままの、加地が焦がれて愛すべき人間であったこと。
……そんな彼女こそが自分が抱く想いと同じ強さの想いを、自分へと返してくれたこと。
一つ一つはささやかな当たり前のことであっても、幾つも幾つも積み重なるのなら、その幸福の度合いは大きなものになる。……奇跡になる。
「願ったものが全部この手の中にあるなんて。……もしかしたら、そのうち罰が当たっちゃうんじゃないかって、勘繰っちゃうんだよ」
苦笑しながら加地が言うと、香穂子は少しだけ表情を陰らせる。
加地が言うことは、……理屈としては分からないわけじゃないのだけれど、本心を言えば、ちょっと理解し難いところがある。
それは、香穂子が加地の言うような『特別』な人間なんかじゃないからだ。
どこにでもいる、同じ年代の女生徒にまぎれれば、途端にどこにいるのかが分からなくなるような。……そんな、凡百陳腐な存在だ。
「それは、香穂さんが自分のことをよく分かってないから」
「それを言ったら、加地くんにだって同じことが言えるでしょう?」
自分を卑下し過ぎだよ、と香穂子を諭す加地の言葉を、そのままそっくりお返ししてやりたい。
喫茶店の奥の席で、香穂子と向かい合せで座り、磨き上げられたテーブルの上で頬杖をつく加地は、痛いところを突かれた、という表情で困ったように笑う。
「実際そこを突っ込まれると、返す言葉がないんだよねえ……」
周りが評価するほど、自分が出来た人間だとは思わない。
環境に恵まれていた自覚はあるが、それは所詮、自分ではない誰かが与えてくれたものだ。本当に自分の手で手に入れるべき、何よりも必要だったものは、どんなに努力しても才能という壁に阻まれて、この手にすることは出来なかった。
だから、いつだって加地は飢えていた。何かが足りていない自分は、不完全なものでしかなかった。『そう』である自分の印象しかないから、自然と自分に対する自分の評価は、低いものになってしまう。
それなのに。
不完全でしかないものなのに、加地は身に余るほどの幸福を、手に入れてしまった。
欲しいものが手に入ってしまった今以上に、幸せなことがあるとは思えない。……だが。
(人間の欲望なんて、際限ないんだ)
もし手に入ったら、それから先、何も手に入らなくていいとすら思っていた。
だが、いざ手に入ってしまったら、加地はまた次の、新しい願いを抱くようになる。
そうして、香穂子はその、新しく生み出されていく願いすら、叶えようとする。
(君の側にいたいとか)
(君の手に触れたいとか)
彼女が生み出す音色を、自分だけのものにしたいとか。
もう、ただの子どもの我侭にしか思えないような願いを。それでも。
香穂子は、笑顔で叶えてくれるから。
人生が、ずっとずっと上向きで進まないことなんて、分かっている。
幸せを欲張り過ぎてしまったら、いつかどんでん返しがやってきて、急降下してしまうんだ。
(だから、僕は)
(今、幸せ過ぎることが何よりも怖い)
「素直じゃないよねえ」
世間話の続きみたいに。
笑い混じりに、呆れたように加地が言うから。
変に臆病になって、いろんな感情を押し止めている自分自身のことを、ある程度はきちんと加地が理解していることを知って、香穂子は小さく安堵の息を漏らす。
ほんとだよ、と。
困ったように顔をしかめて、香穂子は手元の自分のアイスティーのグラスの中の氷を、ストローで音を立ててかき混ぜた。
(本当はね)
(この幸せを噛み締めればいいだけなんだって、僕も知ってるんだよ)
香穂子が与えてくれた想いを、喜んで素直に受け取ればいい。
だけど、ささやかな願いが叶えば叶うほど。
新しい願いは際限なく生まれてしまうから。
(いつか、僕の一方的な願いで)
(君を壊す日が来るんじゃないかって)
人生が、幸せという要素一つで出来上がっているものじゃないから。
どんなに今が幸せでも。
人生にはつまずくことがあるんだと、分かり過ぎるくらいに分かっているから。
この幸福を、素直に受け止められないでいる。
(……君がいれば、哀しいことも辛いこともないって思うのに)
だが、いつか何かが。
加地に苦しみを与える日が来るのなら。
その根源は、きっと。
香穂子にあるような気がしてしまう。
(君がくれる幸せだけを、素直に受け止められたらいいのにね)
恋が、幸せなことだけなんかじゃないなんて、妙にひねくれたことを考えてしまうから。
いつまで経っても、この幸せに溺れることが出来ないんだ、なんて。
自分の弱さを棚に上げて、巡り巡って香穂子を内心責めている自分自身は、本当の意味でまっさらな幸福に満たされる日は来ないのだろうなと。
あまりに素直じゃない自分自身の本性に、加地は苦く笑った。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.10】
多分、今回の企画で一番書くのに苦労した話です。
うちの香穂子さんはそれなりに素直な子なので(笑)加地視点になることは確実だったんですが(これ、お題が柚木や吉羅、衛藤辺りに行ってたらまた別の話になってたと思うんですけどね)、いざ加地で書き始めてみると、こいつはホントに素直じゃないんですよ!
何度か「いい加減にしとけよコンチキショー!」とキレかけました(笑)


