だって、違う者同士、永遠に繋がれることのない手は。
いつか必ず、離さなきゃいけない時が来るんだよ。
「あらー、浮かない顔だねえ。香穂」
カフェテリアの片隅で、注文した新作のケーキと紅茶をトレイに載せて、座る席を探していた天羽は、片隅で落ち込んだ様子で頬杖を付いている香穂子を見つける。冗談めかしてそう声をかけると、ちらりと視線を上げた香穂子は、はあ、とこれ見よがしな大きな溜息を付くので、これは深刻か?と天羽は内心首を傾げた。
「おっじゃましまーす」
「……相席オッケーって言ってないんだけどー?」
「まあまあ。天羽さんが話を聞きますって。もちろん、取材感情なしで、親友として、よ?」
香穂子の向側の席に、トレイを置いて天羽が腰掛ける。からかわれる気配を感じた香穂子が拗ねたように不満を呟いたが、天羽は意に介さない。
隠し事が苦手な自分を十二分に理解している香穂子は、最初は躊躇っていたものの、天羽の追求に渋々、今現在の自分の不安を吐露するのだった。
「……天羽さん?」
狭い廊下で壁を片足で蹴り付け、天羽が加地の進行方向を遮っている。呆気に取られた加地が、恐る恐る伺うように天羽の名を呼ぶ。腕組みをしたままの天羽がゆっくりと足を下ろし、顎で加地を促した。
「ちょっと、顔貸してよ。加地くん」
「うーん、これはさしずめ、僕が連れていかれるのは体育館の裏側ってことになるのかな?」
「番長か!」
ノリのいい天羽は律儀に加地のささやかなボケに乗ってくれるが、そうじゃなくて、と慌てて首を横に振る。
「……ねえ。改めて確認するけどさ。加地くんは、香穂と付き合ってるんだよね?」
「え?……う、うん。一応ね」
途端に照れる加地が、頬を赤く染めて俯いた。……あれだけ恥ずかしげもなく恥ずかしいことを言う男が、何故ここで照れる!と裏手で突っ込みたくなる衝動を、天羽は押さえる。
本題は、そこじゃない。
「だったらさ。……なんで、手を繋ぐくらいのこと、してやらないの?」
カフェテリアでの香穂子の話は、こうだった。
付き合い始めてからの方が、加地の存在が遠く感じてしまう、と。
優しい態度も、こっちが恥ずかしくなるような言動も、変わってはいないけれど。
それでも、何となく、自分と加地の間に、以前にはなかった距離を感じてしまう。
……恋人同士と呼べる、何をすることもない。一緒に並んで歩いていても、手を繋ぐでも、腕を組むでもない。もちろん香穂子も、触れ合っていなければ恋人じゃないなんて、そんなことを思っているわけじゃない。だけど。
(……避けられてるような気がするの)
笑って楽しく話をしていても。
付き合い始めてから加地は、二人の間に見えない一本の線を引いてしまったような気がする。
どんなに願っても、踏み越えられないボーダーラインを。
「……香穂さんが、そんなことを言ってたの?」
「香穂の名誉のためにきちんと弁明するけど、話したがらないのを無理矢理聞き出したのは、私の方だから。そこは誤解しないでよね」
ぴしっと指を突き付けて、天羽が補足する。苦笑しながら、加地は頷いた。
もちろん加地だって、天羽が興味本位で尋ねてきた自分たちの付き合いに関することを、香穂子が簡単に天羽に話すとは思わない。
だからこそ、追求されたとはいえ、天羽に打ち明けずにいられなかった香穂子の不安が、相当に深刻なものであることが、余計に推測出来る。
それでも加地には、簡単には彼女に触れられない、理由があって。
「自分たちのペースで進んでいきたいっていう、加地くんの気持ちが分からないわけじゃないよ。変に焦るよりは健全だと思うし。……だけど、香穂を不安にさせてまで、その『自分たちのペース』ってのは貫かなきゃいけないもんなの?」
……その理由が加地だけのものでしかない以上、天羽の指摘だって、決して的外れなものじゃない。
それは、分かっているけれど。
「……ねえ、天羽さん」
どこか、寂しげに笑う加地が、ふと空を仰いで。
ぽつりと。
……手を繋ぐのには、勇気がいるって知っている?と、呟いた。
香穂子が不安に思っていることに、気付かなかったわけじゃない。
キスをしたり、抱き締めたり。……別に香穂子がそういう触れ合いを望んでいるというわけじゃなくて、もっと単純に、自分たちの距離を測りかねていることを、加地はきちんと分かっていた。
もちろん、加地にそうしたい気持ちがないわけじゃなくて。
もっと近付きたい気持ちも、触れ合いたい気持ちも、当たり前のように胸の奥に燻っていて。
それでも、それを実行に移すには、恐らくは常人の何倍もの勇気が、加地には必要で。
(だって、君は生きていけるでしょう?)
例えばこの先、加地という存在を失う日がきても。
彼女はきっと、加地を切り捨てても生きていける。
あのヴァイオリンの音色を持つ限り。
(駄目になるのは、きっと僕だ)
……本当は。
彼女との距離を縮めたくて。
それでもどこまで近付いていいのかが分からなくて、距離を測りかねているのは加地の方なのだ。
近付き過ぎてしまったら。
……一度、彼女との間に自分自身の心で引いた、ボーダーラインを踏み越えてしまったら。
今以上に、彼女に溺れてしまうことは、目に見えていたから。
『でも、それも言い訳でしょう?』
天羽の厳しい指摘が脳裏をよぎる。
そうかもしれないね、と内心加地は自嘲する。
……幸せも与えられ過ぎると、それを奪われた時の喪失の痛みが怖い。
触れ過ぎず、離れ過ぎない関係で立ち止まっていることが、きっと加地には居心地がいいだけなのだ。
待ち合わせた森の広場のベンチに座る、香穂子の後ろ姿を目にした時。
天羽に言われたことが、突如現実のものとなって加地の胸に迫る。
俯き加減に加地を待つ香穂子の華奢な背中が。
……とても、寂しそうで。
(……ごめんね、香穂さん)
本当は。
加地も、その距離を置かれる彼女の寂しさを、知らなかったわけじゃない。
いつか、自分自身が傷付くことを恐れるあまり、彼女のためだという言い訳を自分自身の中に捏造して、その寂しさから目を反らしただけだ。
(……神様)
どれだけ祈っても。
不可視の神は、何一つ叶えてくれはしない。
あんなに、幼い頃から繰り返し願ったのに、神様は加地に、音楽の祝福を与えてはくれなかった。
それでも、今この時に。
加地は再び、目に見えぬ神に祈る。
(……どうか、僕に勇気を)
一度、そっと目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
座り込んだ香穂子の無防備な手に触れるため、背後からそっと彼女に歩み寄り。
そして、手を伸ばす。
この瞬間、加地に一番必要なのは。
いつか、切り離されることを恐れずに、自分が立っている『現在』を、幸福にするための勇気。
見失った加地の想いを不安に感じて、俯き立ち止まる、誰よりも愛する彼女を笑顔にするために。
柔らかく、小さなその手の温もりに、触れるための勇気。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.11】
ヘタレ万歳!(違)
手を繋ぐことの話は、とある漫画の影響を受けています。私にとって、青天の霹靂というか……幸せなことばかりじゃないんだと目からウロコな話だったので。
天羽ちゃんと加地の掛け合いも好きですね。互いにノリが良さそうなので、森さん辺りも加わって悪巧みをしたら、えらいことになりそうな予感(笑)


