初夏の、少しだけ汗ばむ陽気。
臨海公園のベンチで、加地推薦の人気のイチゴソフトを舐めながら、ふと思い出したように加地が香穂子に尋ねた。
香穂子は一瞬きょとんとする。元来真面目な性格の香穂子は眉根を寄せつつ、一生懸命今日の日付を思い出している。
「加地くんの誕生日は秋だし、私の誕生日は終わってるし、特にイベント事や行事があるって日でもないよね……?」
頭に思い浮かんだ日付に、これといって附随して思い出されるものはない。語呂合わせで決めるような誰も知らないような記念日があるのかもしれないが、そこまで雑学に長けていない香穂子には、何も思い浮かばなかった。
「降参。……何の日?」
香穂子はあまり同時に別々の物事が出来ないので、早々に降参して、溶けかけのイチゴソフトを片付けることに専念する。満面の笑みで、加地が答えを教えてくれた。
「今日はね、僕がこの公園で香穂さんの演奏を初めて聴いた日なんだよ」
香穂子はそのままベンチからずり落ちそうになる。大丈夫?と心配そうに加地が覗き込むのに、力なく頷いて応えた。
「……あまりにもささやか過ぎて、思い浮かばなかった……」
ふふ、と小さく笑って、加地が頷く。
「そうだろうね。もし当てられたら僕の方がびっくりするよ」
何よりも、あの頃、遠目に彼女を見ていた自分の事を、彼女は知らないはずだ。
加地はふと遠くへと視線を向ける。
こんなふうに、遠くから。
加地の理想とする、澄んだ優しい音色を奏でる香穂子を。
憧れの眼差しで見つめ続けていたのは、今ではもう、遠い過去。
「それでも、去年の今日。君に出逢わなければ、僕の人生は随分とつまらないものになっていた気がする……」
不平や不満があったわけじゃない。
望んだ大抵のものはこの手の中に掴めていたと思うし、自分が置かれていた環境を顧みれば、充分に恵まれていたと思う。
それでも、本当に加地が欲しがっていたたった一つのものだけが、どうしても加地には掴めなかった。あのままで過ごしていれば、いつかその現実は、加地の心の中に小さな小さな穴を穿って、徐々に自分を蝕んでいったのではないかと、今なら思う。
それは、目に見えるような腐蝕ではなく。
自分の全力を注げるほどに、何にも夢中にはなれない虚しさと寂しさを、生涯抱え続ける病。
「でも僕は、君に出逢えたから。……ね」
例え、自分でその音を奏でることが出来なくても。
加地が願う、理想とする音を、体現してくれる存在がある。
加地が持てる全力で、その存在を支えることができる。……そんなふうに、夢中になれるものがある。
その事実が、今の加地の生活を、とても充実したものに変えている。
それは、全て。
あの日、あの時。この場所で。
加地の運命を変える香穂子という存在に出逢えたからこそ、起こり得た奇跡。
「……ずるい」
むう、と頬を膨らませた香穂子が、ぽつりと呟く。
残っていたイチゴソフトのコーンを、ぱりぱりぱり、と勢い良く香穂子がかじった。
「ずるいって……なんで?」
「だって、そういう言い方されたら。私も今日を、記念日にしなきゃいけなくなるじゃない」
何故なら、加地に出逢ったことで。
香穂子もやはり、救われたのだから。
コンクールが終わっても、ヴァイオリンを続けていくという選択肢の上で、魔法のヴァイオリンによって香穂子に与えられたものは、大切で。それでいて重く、痛いものだった。
あの魔法のヴァイオリンがなければ、香穂子は音楽と出会えなかった。今のように、それなりに自由にヴァイオリンを弾くことも、恐らく出来なかった。
それでも、あのヴァイオリンの存在は、同時に香穂子にとっての傷でもあったのだ。
今手にしているもの全てが、偶然の幸運で培ってきたものなのだから、ヴァイオリンを弾く度にその罪の意識は浮かんできて、心を苛む。
だが、加地の存在が。
……魔法のヴァイオリンの事を告白されても、それが今の香穂子を形作るために必要なものだったのだと、笑って言ってくれる存在に出逢えたから。
香穂子もまた、その無条件で許してくれる存在に、癒されていた。
「いいんじゃない?」
香穂子の言葉に、小さく笑って。
加地は、晴れ渡る空を見上げる。
「君にとっても、僕が君を見つけた日が同じ意味で記念日になるのなら。……僕は、すごく幸せだよ」
他の誰にも分からないだろう。
教えてみたところで、ただの馬鹿ップルだとノロケに取られて、呆れられてしまうかもしれない。
だが、この日の大切さというものは、他の誰にも理解されなくていい。
たった一人、香穂子だけが。
その重みを共有してくれるなら。
「……じゃあ、毎年、スケジュール帳にハートマーク付けておかなきゃ」
冗談めかして告げた香穂子に、加地がふふっと軽く笑って。
「そして、美味しいケーキでも食べて、お祝をしないとね? 僕らにとって、大切な記念日なんだから」
「今年は、イチゴソフトだったけどね」
食べ終わった後のゴミをくしゃりと丸めて、香穂子が溜息を付く。加地が、楽しそうに声を上げて笑って。
そして、二人はどちらからともなく。
緩く、手を繋ぐ。
他の誰にも分からない。
理解されることのない、何気ないささやかな記念日は。
この手の温もりを手に入れるために、二人に与えられたもの。
加地と香穂子の、人生を変えた。
幸せの、分岐点。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.6】
職場の人の携帯が、毎日記念日を表示するヤツで、それをたまに眺めながら、「こういうのまで記念日にするのか……」と思ったりします(笑)つまりは記念日何つーのは設定する人の気持ち次第ということで。
加地はどうでもいい記念日をいちいち覚えてそうな気がします。
そんで香穂子に「そんなことまで覚えてるんだ……」と呆れられるといい(笑)


