夕立ちの音

金澤×日野

 何かが窓に叩き付けられるような音がして、金澤は視線を上げる。
 通りがかった廊下の窓の外、いつの間にか先程までは青空が広がっていたはずのそこには黒く重い雲が広がって、斜めに叩き付ける雨粒が窓の表面に張り付いたいた。
「夕立ちかあ?」
 顔をしかめ、金澤は一人ごちる。この時期の夕立ちは特別珍しいものではないが、朝の快晴状況から、その日の夕方、確実に夕立ちが降るなどという予測をたてるのは難しいから、学校内には金澤が使うための雨具らしきものは置いていない。うまく帰る頃までに止んでくれれば問題はないが、そこは天候との相談事だから、金澤の希望の一切合切を叶えてくれるとは思えなかった。
(最悪、走って帰るしかないか?)
 この時期だから、後始末さえきちんとすれば、酷く風邪を引き込むこともないだろうと、金澤は最悪の事態を想定した選択肢を考える。……タクシーを呼んで帰る、などという贅沢は、給料日前の厳しい時期だからあえて頭の中から除外した。
「……ん?」
 窓の外の様子を伺いながら廊下を進んでいくと、金澤と同じように窓の外を見つめ、困ったように立ち尽くしている人影があった。片手には、普通科の制服にそぐわないヴァイオリンケース。……日野香穂子だ。
「ひーの」
 間延びした声で、金澤が呼び掛ける。ぱちりと一つ瞬きをした香穂子が、金澤を見やった。
「先生」
「練習してたのか。お前さんも、帰りそびれたな」
 苦笑して言うと、香穂子もまた、困ったように笑って小さく頷いた。
「外が暗くなって来たから、どうしようって思ってたんですけど、何とか練習が終わるまで持つかなって。……判断、間違っちゃいました。早く帰ればよかった」
 香穂子も、決して走り通しで走れば家に帰れない距離ではないのだが、なんせ片手には湿気が最大の敵であるヴァイオリンが握られている。これは、今香穂子の生活にとってなくてはならないものだから、うっかり学校に残して帰るわけにも行かない。今日に限って、友達も皆が皆帰宅した後で、傘を持ってそうな知り合いもいない。最終下校までに夕立ちが上がらなければ、最悪携帯で母を呼び出して、傘を持って迎えに来てもらうしかないだろう。
「そうか……。あ、いや、待て。ちょっと待てよ……?」
 金澤がふと空を見上げる。何かを思い付いたように、慌てた様子で白衣のポケットから携帯電話を取り出した。
 ここ最近、校内に出没するようになった後輩は、確か今日も会議でこちらの方に顔を出す予定だった。短縮で覚えのある番号を呼び出してコールすると、3回目に不愉快そうな低い声が通話に応じる。
「ああ、俺。お前さん、今日も車で来てるんだろう? お前さんが帰るまでに夕立ちが上がってなかったら、ちょいと車で俺ともう一人、生徒を家まで送ってくれないか?」
 一瞬の沈黙。何事か反論する言葉を、金澤は意に介さない。
「どうせついでだろ? 可愛い生徒と、学院維持に身を粉にして働く教員をねぎらっても罰はあたらんぞ」
 しれっと言ってのける金澤に、受話器の向こうの相手は、これみよがしな溜息をつく。
 次に飲みに行く時は金澤さんの奢りですからね、と告げて、通話は切れた。
「……薄給の教師に奢らせるかあ?」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、金澤は二つ折りの携帯を指先で閉じる。きょとんとしたまま、一部始終を眺めていた香穂子に、金澤は笑ってみせた。
「お前さんが、もう少し待っていられるなら、車で家まで送っていってやるぞ」
「え?……いいんですか?」
 香穂子がぱっと顔を輝かせた。まあ、俺が運転するわけじゃないがな、と心の中で呟きつつ、金澤は視線で香穂子を促した。
「送ってくれるヤツの用事が終わるまで、しばらく準備室で待ってるか。コーヒーの一杯くらいは飲ませてやろう」
 大きなストライドで、香穂子の脇をすり抜けて音楽準備室の方へ歩き出すと、少しの間をおいて、香穂子の慌てたような足音が、金澤を追いかけて来た。

「……よく降りますね」
 散らかった狭い音楽準備室内。
 何とか確保したパイプ椅子に深く腰掛ける香穂子が、ミルクをたっぷり入れたコーヒーのカップを両手で抱えて、窓の外へ目を向ける。
 そうだなあと、デスク前の回転椅子に腰掛けて、のんびりと答える金澤が一口苦いコーヒーを啜った。
 閉ざされた狭い室内には、夕立ちが窓に叩き付ける音だけが響く。
 一人でいたら、その騒がしさと相反する室内の奇妙な静けさに、気が滅入っていたように思えるが、不思議ともう一人、同じ音を共有する人間がいてくれるだけで、夕立ちの音は優しいものになる。
「先生は、雨、好きですか?」
 意図のよく読めない問を、香穂子がする。どうだろうなあと、あまり真面目に考えていないような雰囲気で金澤は答える。
「好きとか嫌いとかで考えたことがないっていうのが正しいかもな。まあ、雨ってのは、じめじめして、うっとおしくて。降ってるだけで気が滅入るからなあ」
「ふうん」
 香穂子が感心したような口調で呟く。お前さんは?と金澤が逆に問うた。
「雨が、好きか?」
 先程から、特に厭うわけでもなく外へと注がれる彼女の視線。
 それは、突然降り出して、自分を校舎内に足留めした雨を憂う表情ではなかった。どこか、愛おしむようなものを見つめる優しい目。
「うん。……どちらかと言えば、好きなんです」
 素直に頷く香穂子が、屈託なく笑う。
「雨の音は楽しくて、雨が降った後の空気は綺麗だから」
 一瞬、その笑顔に動きを止めた金澤は、小さく笑って視線を伏せる。
「……成る程なあ」

 余分な夾雑物を洗い流して。
 まっさらになる、雨の後の空気。
 それは、どんな時でも迷いなく笑える彼女の笑顔と同じように。
 ……とても、綺麗なものだろう。

 二人が言葉を途切らせた室内には、穏やかな沈黙が満ちて。
 ただ、窓の外で強く降り続ける夕立ちの雨音だけが、静寂を塗り潰す。
 永遠に続いていきそうな、優しい時間。だが、それはただの錯覚でしかなくて。
 雨の終わりと共に、簡単に消えてなくなるものだと分かってはいても。

 普通なら。
 早く雨が止めばいいなとか、早く迎えが来ないかとか、そういうことを言うべき場面のように思えるけれど。
 彼女も。……そして、自分自身も。
 あまりにも、この二人きりの時間が優しくて。
 そこに満ちる雨の音が心地いいから、その終わりを望む言葉は、あまりにも今の心境にそぐわなくて。
 ……それでも、この時間がずっと続けばいいなんて願いも、簡単には口に出せないから。
「……たまには、じっくりと雨音を聴いているのも、悪くはないな」
 と、曖昧な言葉を金澤が告げてみると。
 香穂子は、何だか。
 全てのことを知っているみたいに。

 妙に大人びた表情で、小さく微笑んだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.9】

それらしい描写は出て来ませんが、一応お互いの気持ちを知っている設定です。金やんだからこそ出せる……こう、まったりとした空気を書いてみたかったと言うか。
それにしても、いいようにこき使われているな、理事(笑)

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