臆病な俺

金澤→←日野

 金澤先生、と呼んで、駆け寄って来る姿が。
 いつでも真直ぐで、輝くような笑顔だから。




「よろしくないよなあ。……ウメさんや」
 抱き上げた猫は、特に有益な助言をしてくれるわけではなく、どことなく不愉快そうになーんと鳴く。そりゃそうだよな、と独りごちて、芝生の上に結構な重量の身を下ろしてやると、金澤の葛藤は軽く無視で、森の広場に住み着く猫は、躊躇なく走り去ってしまった。
(いい加減にしろ、なんつって、突っぱねられれば楽なんだがなあ)
 年を重ねて、更に教師などという嫌でも生徒にそれなりの気を配らねばならない立場にいると、まだ年若い生徒たちの行動パターンや気持ちなどが妙に透けて見えて、困る。分からなければ気にしようもないのだし、きっと向こうも今の段階では知って欲しい、などと思っているはずがないのだが。
 元々、彼女は素直で、物おじしない性格のように思える。それが本当にそのまま、金澤への態度にも表れて来るから厄介なのだ。
 おそらく、彼女……日野香穂子は、金澤を好いている。
 それが、少しだけ他の教師よりも関わりが深くなった、教師連中の中では比較的彼女らの世代に近い若輩者の金澤に対する親近感なのか、それとも憧憬なのか。……はたまた、最悪、恋愛感情なのか。そこまでの判断はつかないけれど。
 「金澤先生」と自分を呼ぶ時の弾む声と、駆け寄って来る時の笑顔と。
 そして彼女が、練習を聴いて欲しいと金澤に頼んで、そうした時に奏でる時のヴァイオリンの優しい音色が。
 その事実を物語る。
(よろしくない)
 憧れで済んでくれるのならいい。憧れならば、彼女が望まない金澤の一面を彼女が知ることになれば、呆気無く解ける魔法でしかないから。
 だが、それが本気の恋愛感情なら。
「……傷付くよな」
 ぽつりと金澤は呟く。
 呟いた後で。
 ……いったい誰が?と脳裏で自問自答した。

 そう、本当によろしくないのは。
 厄介だと思えるのは。
 金澤の方が、その彼女の『好意』を。
 心のどこかで、喜んでいるからだ。

(教師なんて大層な肩書きを背負っていようが、所詮はただの人間だ)
 辛いことから逃げて。しがみつくこともできずに諦めて。
 確かに、あの頃の自分にはそれが精一杯だったのだと分かっていても、何もかもがほんの少しだけ落ち着いた今、過去の自分を振り返れば、なんて脆弱な生き物だろうと嘲笑いたくなる。
 だが、そんな金澤にとって。
 自分より一回りも幼いあの少女は、大袈裟な物言いながらも、確かに希望の光なのだ。
(諦めない、投げ出さない)
(揺らいでも決して折れることのない)
 あの頃の自分が、あんなふうに真直ぐ生きていられたら。
 強く、強くあれたら。
 どんなに良かっただろうと、憧れる光。


 白衣が汚れるのも気にせずに、金澤は芝生の上にごろんと横たわる。仰向けで見上げる空が眩しくて、両目の上に片腕を乗せる。閉ざされる視界。

 ……この状況は、よろしくないよな。
 あいつが俺を好いてくれても、きっと傷つけるだけで終わるのに。
 教師と生徒の恋愛なんか成立するかと突っぱねられて、きっとあいつは哀しむだろうに。
 ……ああ、でも。そうなんだよな。
 俺も多分、傷付くんだよな。
 傷付かない方法が、たった一つ。
 困難だと分かっていても、おそらくは幸せになれる道が一つ、残されているけれど。
 残念ながら、それを選ぶ勇気は、俺にはないんだ。

 ……本気の恋に溺れるのは、怖いんだ。
 壊れた時の痛みを、これ以上にないくらい知っているから。


「……金澤先生?」
 不意に金澤を呼ぶ心地良い声。その声の主を、嫌と言うくらい知っている。
 両目の上に置いた腕をずらす。木漏れ日と共に降る、無邪気な笑顔。
「サボって寝てちゃ、駄目ですよ」
「……俺は、今の時間は授業がなかったの」
 はいはい、と香穂子が笑う。その片手には学生鞄とヴァイオリンケース。
「先生、他にすることないなら、練習聴いて下さい。芝生でごろごろしてても、それくらいならできるでしょう?」
「遠慮なく失礼なやつだな、お前さん……」
 金澤の嘆きをものともせず、その場に荷物を下ろした香穂子はいそいそとヴァイオリンの準備を始める。こうなると、一曲聴いてやるまでは引かないことを知っているから、金澤はもう一度両目の上に片腕を乗せて、その下で目を閉じる。
「……ったく。一曲だけだぞー……」
 はい、と迷いのない声が応じる。しばらく衣擦れと乾いた物音。風と木々の葉ずれの音だけが響いて。
 そして、それらを全て塗り替えるように、優しい旋律が辺りに満ちていく。

 ……この状況は、決して良くはない。
 日野の淡い想いに気付きながら。それをまだ気付かぬ振りで。
 期待を持たせるだけで、何もしてやれないこの現状。
 だが、本気の恋に溺れるのは怖くて。
 ……傷付くことは怖くて。
 そして、それ以上に。

 曖昧な自分の態度に、彼女がいつか苦しむと分かっていながらも。
 このささやかな幸福を失うことが怖い。


 それは、全て。
 達観した大人にはなり切れなかった金澤の。
 臆病さ故の罪。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.8】

ヘタレだらけ(しみじみ)
でも三十路過ぎたって完璧な大人になれるかと言ったらそんなことはないよね!(……と、自己を振り返りつつ)
達観してる大人に見えて、香穂子ごとき(あえてそう言う・笑)若輩者に揺らされるのが、金やんの魅力だと思いますよ!

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