許されるなら

金澤×日野

 もし、許されるなら。
 こんな自分が、本当に望むことは。




 香穂子が高校を卒業して数カ月。
 金澤も、一度諦めかけた歌を生きる糧にする道を模索するために、教職を退いている。
 故に、過去には教え子と教師であった自分たちの、恋愛にまつわる障害というものは既になくなってしまったはずなのだが。
(……何だかなあ)
 相変わらず低価格な狭いアパートで、金澤は一人暮しを続けている。その整頓されてはいるものの古びたキッチンで、大学の講義帰りの香穂子が鼻歌を歌いながら金澤の夕飯を作ってくれている。
 一見、仲睦まじい新婚家庭的シチュエーションとも言えなくもないのだが、実はまだ、金澤はキス以上のことを香穂子にしていない。
 もちろん、若干とは言い切れないくらい彼女より年上とは言え、そういう欲求が全くないわけでもないのだが、始まりが教師と生徒という、恋愛をするにはある意味特殊とも言える関係からだったからなのかもしれない。それ以上事に及ぶのは、どうしても妙に罪悪感が湧くのだ。
 香穂子の方も、あまりそういうことに興味がないのか、それともそこまで考えが及ばないのか、抱き締めてキスをするだけで満足しているように……少なくとも金澤には……見える。軽く口付け合うだけで、幸せそうに頬を染めて笑う、可愛らしい恋人の恥じらいに、金澤はそれ以上を望むことが出来なかった。
 そう……繰り返すが、もちろん所詮金澤も健康的な男性なので、当然そういう欲求がないことはない。……というか、正直なところを言えば、ものすごく、ある。
 それでも、それを実行に移すにはどうしても「許されない」という思いが付きまとう。
 誰が許すも許さないでもないだろう。自分たちは、そういうことが許される関係であるはずなのだから。
 ……それなのに。
(……俺は、誰に許して欲しいんだろうな)
 香穂子の手料理を待ちながら、悶々と思い悩む金澤は、低いテーブルの上に頬杖を付いて。
 はあ、と盛大な溜息を付いた。

「お前さん、また腕を上げたな」
 香穂子が作った和食メインの夕食を食べながら、感心したように金澤が呟く。
 元々家族が多い割に皆が皆、出歩くのが好きな性格の中、何故か香穂子一人が家の中で大人しく過ごすことを好む性格だったため、香穂子は一通りの家事が出来る子だったのだが、そこは、たまにしか料理をしない香穂子と比べ、何年も一人暮らしをしていた意外に凝り性の金澤に料理の腕がかなうはずもなく、最初にここに夕飯を作りに来るようになった頃は、断然金澤の方が料理上手だったのだ。
 ところがいつの間にか、香穂子は金澤の腕を追い抜いてしまった。訓練の賜物です、と香穂子は照れくさそうに笑った。
「これならいつでも嫁に行けるよなあ……」
「えっ!」
 何気なく呟いた金澤の言葉に、弾かれたように顔を上げて、香穂子が過剰反応する。一瞬呆気に取られた金澤だったが、今彼女が嫁入りする確率が高いのが、恋人である自分であることに遅れて気が付いた。
「あー……いや、そういう狙いがあって言ったんじゃ……」
「……はい」
 分かってます、と香穂子が苦笑して頷いた。
 寂しそうな様子に、金澤は何だかバツが悪くなって、かりかりと頭を掻く。
 ちょっと重い雰囲気が狭い室内に満ちた。
「……先生」
 卒業してまだ数カ月にしかならない香穂子の金澤の呼び方は、以前と変わらない。
 もうお前の先生じゃないんだぞ、と苦笑いでたしなめたら、癖になっているのでなかなか抜け切れないと、困ったように言ったっけ。
 そんな春先のことを彼女の呼び声に導かれて思い出しながら、金澤はふと「呼ばれた」ことに気付いて我に返った。
「……ああ、悪い。……どうした?」
 遅れて彼女の呼び声に応じると、金澤の向かい側で綺麗に正座をし、俯いていた彼女が小さな声で何事かを呟いた。
「……え?」
 聞き取れず、金澤が尋ね返す。
 一瞬、困ったように唇を引き結んだ香穂子は、躊躇いながらももう一度、同じ問を微かな声で繰り返す。
「……先生」

 私はいつ、先生の『彼女』になることを許されるのかな。

「……日野」
 ぽかんと呆気に取られて、反射的に金澤は香穂子の名前を呼ぶ。
 香穂子が金澤の事をいまだに「先生」としか呼べないように、長年呼んで来た「日野」という呼び名が口を付いて出る。学校にバレないようにと無意識に名前を呼ぶことを警戒してきた所為で、咄嗟に呼ぶ時は先にこちらが出てしまうのだ。
 戸惑ったような金澤の声に、俯いていた香穂子がはっと我に返る。かあっと頬を染める香穂子が、視線を空に泳がせた。
「あっ……ご、ごめんね、先生。子どもみたいな我侭言って……!」
 大事にしてもらっていると思う。
 忙しいはずなのに、こうして家に寄って逢う時間を捻出してもらって、自由に過ごさせてもらって。
 大切にしてもらえていて、変わりなく好きでいてもらえてる。
 だが、ちっとも進む気配のない関係に、さすがに香穂子も不安になるのだ。
 香穂子がまだ、子どもだから。
 金澤に釣り合う大人の女性にはなり切れていないから。
 金澤はまだ、香穂子のことを対等な恋人として扱うことが出来ないんじゃないかって。

 今まで香穂子の胸を占めていた不安が、先程の金澤の言葉で形になってしまった。
 まるで他人事みたいに、「嫁に行けるな」なんて。
 もちろん、そんな含みが金澤にあったとは思わないのだけど。
 その一言は、香穂子の不安を決壊させるのには充分の威力を持っていた。

「ごめ……あの、後片付け……あるけど、でも……帰るね!」
 泣き出しそうになった香穂子が、慌ててそう言って、自分の荷物を取り上げて、部屋を後にしようとする。焦った金澤が立ち上がって、咄嗟に手を伸ばして香穂子の腕を掴もうとするが、ファータを追い掛けることで相当に鍛えられたらしい彼女の反射神経は、その金澤の追従をするりとかわす。
「あ、おい、こら……待て!」
 慌てた所為で低いテーブルを蹴り飛ばし、したたかに向こう脛を打ち付けて、顔をしかめつつも、何とか金澤は香穂子がドアを開ける前に、すんでのところで彼女の細い腕を掴まえた。
「待てと言うのに!」
「ヤダ、帰る! もう、帰るから……!」
 だだっ子みたいに金澤の腕を振り払おうとする香穂子の両腕を、金澤はドアに押さえ付ける。香穂子の手から、握っていた荷物がぼたぼたと足元に落ちる。今日は、ヴァイオリンを持っていなかったことが幸いした。
「……帰るな!」
 低い金澤の叫びが、香穂子の動きを止める。
 びくっと身体を震わせた香穂子が、涙目のまま金澤をそろそろと見上げて来る。どこか苦しそうに顔を歪めて、金澤は溜息と共に、もう一度自分の願いを呟いた。
「……帰るなよ」
「せんせ……?」
 頼りなく揺れた金澤の声に、香穂子が目を見開く。
 香穂子の両手をドアに縫い止めたまま、長身の金澤がそっと身を屈める。
 軽く触れて始まった口付けは、すぐに濃厚なものへと変わる。初めてではないけれど、あまり貰うことのない深いキスに、香穂子は増々目を見開いて。
 それから、ゆっくりと瞼を閉じる。
 目尻に溜まっていた涙が、閉じた瞼に押し出される。
 いつの間にか解放されていた両手で、香穂子は懸命に金澤の大きな身体を抱き締めた。

「……あのなあ、これでも俺は、相当に我慢してるんだよ!」
 唇を離して、息がかかる近い位置で、金澤が苛立たしげに呟く。まだ瞳を潤ませたままの香穂子が、小さく首を傾げた。
「我慢って……どうして」
「それは……まあ、なんだ。お前さんが」
 教師としての俺を好きになってくれたから、と。
 金澤はバツが悪そうに告白した。
「ただの男だって知られて、幻滅されたら困るだろ」
 照れ隠しなのか、頬を染めつつもしかめツラでぼやく金澤を。
 香穂子はその時初めて、可愛いな、と想った。
 自分より10歳以上年上の人に。
 可愛いなんて、可笑しいのかなと思ったけど。
「……可愛い、先生」
 くすくすと笑い出しながら、香穂子が思わず言うと、不満げに金澤が香穂子を睨んだ。
 でも、睨まれても怖くない。
「……だいたい、お前さんがまだ『先生』なんて呼ぶから、余計に萎えるんだろうが」
「私の所為になるんですか、それ」
「そりゃあ、そうだろ。その呼び方のおかげで、生徒に手を出すなんて許されない!ってブレーキがかかっちまうんだから」
 それは完全な責任転嫁で。
 本心を言ってしまえば、男の本能を晒すことで、香穂子に嫌がられてしまうことが怖かったのだけれど。
「……どうにかして欲しければ、『俺』を呼べ」
 指先で香穂子の鼻を摘んで、金澤は香穂子に言う。
 上目遣いで見つめると、年上の恋人は、今まで見たことがないくらいに優しく。
 甘く、微笑んだ。

 お前が、『先生』ではない『俺』を呼ぶのなら。
 お前を願うことを、お前に許されるのなら。
 お前の全部を俺が、責任持って貰い受けてやる。

 その宣告は。
 香穂子にとって酷く勇気を必要として。
 そして。
 ひどく、魅惑的な誘い。

「……ひ」
 香穂子は震える声で視線を伏せ。
「紘人、さん」
 初めて、恋人としての。
 目の前の男の名を呼んだ。

「……よく出来ました」

 にっと満足げな笑みを浮かべた金澤もまた。
 初めて、彼女の対等な恋人として。

 男の情慾を持って、彼女の細い首筋に。
 そっと指先で触れてみた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.22】

正直、これ書いていいのかなあ……と、自問自答しつつ書いた作品です(笑)
でも、今回は割と「微エロ」系統と言うのか……制限かけるほどじゃないけど、連想させるなあと思う投稿作品はありましたので、「あ、ここまでは書いていいんだ」と変に安心したと言いますか(笑)
今回大人組(特に金、吉)は全体的に書いていて楽しかったです。

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