あの頃の俺達に戻れたら

金澤×日野

 久し振りのかつての職場の屋上で、見るともなく柵に両腕を預け、眼下の風景を眺めていたら。
 教師らしい若い青年……とは言っても、この学院内を構成する人員の割合から言えば、おそらくは大学を卒業したばかりの、金澤よりは遥かに若い新米教師は、生徒たちから見て、既に「おじさん」と認識されてしまう年齢なのかもしれないのだけれど……が、数名の女生徒を引き連れて、眼下の道を横切っていくのが見えた。
 無邪気にじゃれ付く女生徒たちと、若干面倒くさそうにそれをあしらう教師。
 いつかの俺たちもあんなふうだったろうかと、少しだけ懐かしく。
 少しだけ、胸を痛めるような思いで、金澤は彼らの行く末を見守った。




「あ、こんなところにいた」
 昔はよく、煙草を吸うために訪れたこの屋上で、煙草を持たないまま彼女を待つのは妙に手持ち無沙汰な感じがしたが、屋上の重いドアを開けて、朗らかに笑って金澤に声をかけた彼女に、一瞬あの頃の自分たちが蘇る心地がした。
 だが、小さく瞬きをして見つめ返した彼女は、あの頃のように学校指定の普通科の制服に身を包んではいない。髪が伸びて、淡い化粧を施して、とても大人っぽく、綺麗になった彼女がそこにある。
 だから、過去に還るのはほんの一瞬。
 すぐに、現実が戻って来た。
「何か、面白いもの見えました?」
 金澤の隣に歩み寄って、香穂子はそこから、金澤が先ほどそうしていたように、少し身を乗り出して、眼下の風景を見やる。「この風景、懐かしいな」と目を細めて笑った。
「別に目新しいものは何もありゃしないさ。いつの時代でも、生徒に質問攻めになる損な役回りの教師がいるもんだなって、懐かしく見てただけだ」
 言いながら、金澤は先ほど通り過ぎていった一行の行く先に視線を向ける。目を凝らして懸命にその視線の示す先を見つめる香穂子が、小さな人影たちを捉えたのか、なるほどと微苦笑した。
「確かにあんなふうに、質問する子達を引き連れてた白衣の先生がいましたね」
 もっとも、まともに質問に答える気はなかったみたいだけど?と、からかうように香穂子が金澤を覗き込む。
「馬鹿言え。お前さんの質問にはきちんと答えてやってただろ」
「渋々ながら。とっても面倒そうに、ですね」
 横目で睨み付けると、笑い混じりの溜息を零しながら、香穂子が軽く肩をすくめた。
 やれやれと、ここ最近金澤と一緒にいることに慣れたのか、妙に口達者になった香穂子に、金澤はこれ見よがしの溜息を付く。
 ふわりと屋上の強い風が、香穂子の長い髪をなびかせた。
 それを片手で押さえる香穂子と、強い風に顔をしかめる金澤は、同じように今は見えなくなってしまった、過去の自分達を思わせる現在のこの場所の住人たちへと、同時に視線を向けた。

「……もし、俺たちが」
 あの頃の俺たちに戻れたら。
 どうするんだろうな?と。
 少しだけ、意地悪なことを、金澤は香穂子に問いかけた。
「……あの頃に」
 今、戻れるなら。その時は。
 自分たちは。
 違う選択をしたのだろうか。
「……紘人さんは、戻りたい?」
 困ったように笑う香穂子が、逆に金澤に問いかける。
 俺か?と意外そうに眉を上げる金澤が、思い悩むように空を睨んだ。
「……俺は」
 あの頃の俺たちに戻れたら。
 彼女を手に入れた時の、あの瞬間に戻れたら。
 今、あの過去を見つめる自分たちは。
 違う選択をするのだろうか。

「……変わらんだろうなあ」
 しばし、考えて。
 それから、金澤はあっさりと結論を出す。
 苦笑いの金澤に、小さく笑い返す香穂子は、そうですね、と頷いた。

 彼女と寄り添わない人生は、実に安寧として平和な、穏やかなものになったのだろう。
 波風も立たず、教師と言う安定した職業で、ぬるま湯に浸かっているような居心地のよい人生を送れたはずだ。
 だけど、そんな平坦な人生は。
 同時に、酷くつまらない。

 香穂子と生きる人生は、紆余曲折ばかりで、常に多難で。
 葛藤や苦悩が多かった。決して、のんびりと気を抜いて過ごせるような優しい日々ばかりではなかった。
 だが、何かを諦めたように、平坦な毎日をただ無造作に繰り返していくだけの日々よりは。
 そんな、浮き沈みの激しい人生は、確かに充実していて、意味があった。
 ……だから。

「あの頃の俺たちに戻れたら。……何だかんだと言いつつも、やっぱり俺たちは同じ選択をするんだろうさ」
 障害の多い恋を手に入れると決めたあの時点で。
 平凡でつまらない幸せは、選べなくなると分かっていたのだから。
「後悔してないか?」
「してません」
 金澤の問いに香穂子は即答する。
「だって、今の私は幸せだから」
 暮れる陽の赤さを頬に映す香穂子は。
 とても綺麗に微笑んだ。
「……ああ。……そうだな」
 頷く金澤が、片手を伸ばして香穂子を引き寄せる。
 その肩を抱いて、柔らかな髪に頬を埋めて。
 繰り返し、金澤は頷いた。

 この学院の教師だったあの頃にはなかった、遠い栄光の過去とは違う、それでも大切な歌を、今の金澤は握っていて。
 そして、もう一度この歌を手にする勇気をくれたのは、香穂子だった。
 あの頃の、ぬるま湯の中のように居心地のいい、穏やかな安寧には二度と戻れはしないけれど。

 それでも、あの時彼女を選択した金澤の未来は。
 確かに幸福に満ち溢れていた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.22】

金やんが、歌に戻ったところで、どの程度取り戻せるのかは分かりませんが、まあほどほどに。無理のないように、できるだけ(笑)
何でこの二人が星奏学院にいるのか……って設定まで考えてると、風呂敷広げ過ぎて大変なことになりそうだったので、あえて割愛。おそらくは理事長な人に無理難題でも押し付けられてるんじゃないでしょうか?(主に香穂子が・笑)
一応、結婚を意識している二人として書きました。

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