最高のライバル

金澤×日野

 もう一度、あの頃の自分を取り戻すため、金澤が喉の手術を受けると聞いた香穂子は、咄嗟に自分がどう対応したらいいのかが分からなかった。
 金澤が諦めないでいてくれることは嬉しい。何がきっかけだったのだとしても、もう一度歌を歌いたいと思ってくれたのなら。
 だが、香穂子は自分が思う以上に、その『諦めない』ことを軽く考えていたのかもしれない。
(手術って……)
 金澤の気持ち次第で、容易く返って来るものだと思っていたのに。
 彼が歌を取り戻すことは、香穂子の想像以上に、困難なことだったのだ。


「だからって、お前さんがそんな顔をする必要はないだろ?」
 沈んだ表情で金澤の家を尋ね、玄関先で無茶なことを唆したことを深々と頭を下げて謝った香穂子に、困ったような表情でかりかりと頭を掻きながら、金澤は言った。とりあえず上がれ、と促されて、香穂子は狭いアパートの室内に、おずおずと踏み入った。
「その辺に適当に座れ。散らかってて悪いがな」
 低い丸テーブルが置いてある側に、香穂子が躊躇いながらも正座して座り込む。キッチンで意外に慣れた手付きでお茶を入れてくれた金澤が戻って来て、テーブルの上の香穂子と自分、それぞれ近い位置に湯気の上がる湯呑みを置いた。自分の分のお茶を手に取りかけて、これがあったかと気付いて、口淋しさをまぎらわすために、煙草代わりにくわえていた棒付きキャンディーを取り出して、きょろきょろと周りを見渡した挙げ句、またキッチンに戻って、それを空いていた皿の上に置いて来た。
「あのな、日野」
 改めて香穂子の前に腰を落ち着けて、話を切り出した金澤は、それでもしばし迷うように空に視線を巡らせ、香穂子に告げる言葉を探しているようだった。香穂子はそれを上目遣いに見つめながら、金澤から告げられる言葉を待つ。
「……正直なことを言えばな。例え手術をしたところで、俺が昔と同じ声を取り戻すのは、無理だ」
 きっぱりとした金澤の物言いに、香穂子は微かに目を見開く。
 金澤は、それが分かり切った上で自分の喉を苛め抜いた。
 そして、歌わない時間を重ね過ぎた。
 それは、二度とあの頃の自分の歌を、望まない覚悟で。
 本当は、今でもその気持ちは変わっていない。
 一番輝かしかった頃の自分は、どんなにこれから努力を重ねても、取り戻せはしない。だから、同じ栄光を、金澤は望まない。
 ……それでも。
「今の俺に出来ることが……今の俺にだからこそ歌えるものが、何かしらあるんじゃないかと思ってな」

 手術でどれだけ自分の過ちが取り戻せるのかは分からない。
 もしかしたら、あまり劇的な変化をすることはなく、やはり思いどおり歌えない自分に、金澤はもう一度絶望するのかもしれない。
 だけど、それでも金澤は。
 声そのものを失ったわけではないから。
「ちょっとだけ頑張ってみて、今よりはちょっとマシな歌が歌えるように努力してみるさ。声楽家になることは無理でも、そちらを専門にした指導者くらいにはなれるかもしれんし、そうしたら、後進を育てることも悪かあない」
 にやりと笑って、金澤は黙ったまま金澤の話を聞いている香穂子の頭をくしゃりと撫でた。

「俺が、それなりに歌を取り戻すのが先か、お前さんが、お前さんの望む形のヴァイオリニストになるのが先か。……お互いに頑張ってみようじゃないか?」

 香穂子がいなかったら。
 ひたむきに、真直ぐに。
 決して諦めない強さで未来を見据える存在に出逢えなければ。
 金澤は今でも、何かを諦めてしまったまま、自分の心のどこかを殺して生きていたのかもしれない。

 だが、香穂子がいれば。
 挫けることのない存在の見本が、金澤の側にあれば。
 彼女が未来を信じ続ける限り、金澤もまたそれに倣って、同じ未来を信じられる。
 ……そんな気がした。

「……私たち、ライバルですか?」
 ふわりと浮かんで来た涙にぐすっと鼻を鳴らしながら、泣き笑いの香穂子が上目遣いに金澤を見つめる。
「そういうこった。お前さんよりは多少人生の浮き沈みを知ってる立場としちゃあ、若人にお株を奪われてばかりじゃ体裁が悪いからな」
 香穂子が努力し続ける限り、金澤も諦めずに歩き続ける。
 お互いが切磋琢磨で成長し続ける未来。
 それは、ある意味理想的な関係だった。

「……香穂子」
 一転、どこか不安げな色を宿す声で、金澤はぽつりと普段はあまり呼ぶことのない恋人としての香穂子の名を呟く。
「はい」
 居ずまいを正す香穂子が、反射的に返事をした。
「……俺を、待てるか?」
 香穂子から視線を反らしたまま、低い声で尋ねた金澤の言葉に。
 今度は、罪悪感も迷いもなく。
 自信を持って、香穂子は答えることが出来た。
「……はい!」

 私は貴方に負けないように、私のやるべきことをやりながら。
 貴方のことを、ずっと待ってます、と。

 陰りのない笑みで、断言した最高のライバルの言葉に。

 呆気に取られたように微かに目を見開いた金澤は。
 適わない、といったふうに、苦い微笑をその唇に浮かべるのだった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.22】

手術後がどれくらいで戻ってこれるかが分からないので、それなりに長期間を置くという設定で考えています。
本当はこのお題は金やんには来て欲しくなかったですね(笑)しっくり行ったのは、月森、土浦、柚木、衛藤辺りだったろうと思ってるんですけど。

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