約束をしようよ

王崎×日野

 王崎と一緒に過ごすのは嬉しくて、幸せなのだけれど、ずっとは続いていかない時間だと知っているから、心の底から楽しいと思える分、寂しさも増していく。
 我慢をしなければいけないことだと分かっている。例え、王崎に一人のヴァイオリン奏者として大成する気がないのだとしても、やはり彼は、広い世界に目を向けて、制限のない場所でこそヴァイオリンを弾くべき人だと思うから。何よりも、狭い日本の殺伐とした雰囲気よりも、どことなく自由で穏やかな海の向こう側の国の空気が、王崎には似合っている気がするし。
 だからと言って、香穂子がそんな王崎の後を追えるわけじゃない。謙遜でも自嘲でもなく、同じ世界を目指すには、香穂子の中の覚悟が足りない。それは、ヴァイオリンの実力より先に、もっと基本的に身に付けていなければならない、心構えの問題だった。
 このままヴァイオリンを続けていればいつかは目指せるようになる夢かもしれないけれど、現時点で、やはり香穂子は自分が王崎と同じ世界に生きていられるとは思わなかった。
(……寂しいなあ)
 王崎と繋いだ手が暖かい。その温もりを心地よく感じれば感じるほどに、この温もりを手放すその時は、哀しくなる。だが、香穂子はそれを王崎に見せてはいけないことも重々分かっていた。
 王崎は優しいから。香穂子が寂しがることを知れば、きっと胸を痛める。……遠い国で自分のヴァイオリンが辿るべき道を模索することを、躊躇してしまう。香穂子にとって、そんなふうに王崎を迷わせることも本意なことではないので、そうするとやはり、香穂子はこの寂しさを王崎に気付かれないように、上手に隠さなければいけないのだ。
「……ねえ、香穂ちゃん」
 静かな王崎の声が、不意に響く。はい、と自分の思考に沈んでいた香穂子が、慌てて顔を上げて応じた。
「春には、桜の綺麗な場所に、お花見に行こうか」
「……はい?」
 王崎の突然の言葉に、香穂子は怪訝に首を傾げる。そっと横顔を見上げるけれど、穏やかな表情の王崎は、ただ自分達が歩く先の風景を見つめているだけだった。
「夏には海に行こう。……香穂ちゃんは、泳げる? 泳ぐの苦手なら、山の方でもいいよね。キャンプなんてできれば、きっと星が綺麗に見えるよ」
「あの、王崎先輩?」
 急に、何を言っているのだろう。
 王崎はもうすぐ、ウィーンへと旅立ってしまう。
 春も夏も、……その先も一緒に過ごすことは、おそらく出来ない。
 時折、帰国することはあるだろう。だが、そんなに遊び回れるほどの時間の余裕はないであろうに。
「……別に、今年の話じゃなくて、いいんだよ」
 戸惑う香穂子に苦笑する王崎は、ちらりと横目で香穂子を見つめ、小さく笑う。
「おれは、これから……どんなふうにヴァイオリンと関わって、どんなふうに生きていくのか分からないけど、それでもたった一つだけ、確実に言えることがあるんだ」
 それは、どんな形であっても。
 いつか来る未来には、香穂子と共にありたいと願うこと。
「今年は叶わないかもしれない。来年も無理かもしれない。……だけど、いつかちゃんと叶えられるように、君と約束したいんだ。……いつか、一緒に。いろんな場所に二人で行くんだって」

 春には桜を。
 夏には星を。
 秋には色付く木々を。
 冬には、一面の銀世界を。
 ……変わる四季折々の風景を、必ずどこかで。
 彼女と一緒に、この目に焼きつける。

「……気付いてたんですか?」
 懸命に隠していた、香穂子の寂しさ。
 引き止めても泣いても、王崎を困らせることにしかならない。だから、笑顔で、平気な顔で、見送りたかったのに。
「香穂ちゃんは、隠し事が苦手だよね?」
 苦笑して、王崎が言う。
 時折見せる、陰る表情に。
 王崎に気付かれないようにこっそりと零す溜息に。
 見隠れする、香穂子の寂しさ。
「それでも。……ひどい話なのかもしれないけれど、おれは、それを嬉しいと思ったよ」
 彼女があまり寂しがらなければいい。哀しまなければいい。
 そう思う心の裏側で、自分がいない未来を香穂子が憂いてくれることは、王崎にとって嬉しいことだった。
 それは、王崎も同じ気持ちだから。
 新しい場所で、広い世界で、自分のヴァイオリンの価値を試してみることは、確かに王崎の夢で、そして必然だ。ヴァイオリンと共に生きていく人生の中で、必要な選択肢。
 それでも、香穂子と……誰よりも愛おしく想う彼女と、離れ離れになることは、王崎も哀しくて、寂しい。
 だが、だからこそ、王崎も気付くことが出来た。彼女が、必死に王崎の目から隠そうとしていた、彼女の寂しさに。
「香穂ちゃん。……いっぱい、いっぱい約束をしようよ。今すぐのことじゃなくて、ずっと遠い未来の話でいいよ。おれは、それを破るつもりはないから。……絶対に、叶えてみせるから」
 そして、その夢のような遠い未来の約束が、きっと離れ離れに生きる王崎と香穂子の心を繋ぐ。

 香穂子がぴたりと歩く足を止める。繋いだ手を否応なく後ろに引っ張られて、王崎も足を止めた。振り返ると、街灯の下、俯く香穂子がいた。繋いだ手から、香穂子の小さな震えが伝わって来る。
 ……泣かせるのは自分だと分かっていても、やはり香穂子に泣かれるのは、胸が痛い。
 王崎は、繋いでいない方の手をそっと伸ばす。片腕で、優しく香穂子を抱きしめると、王崎の胸に額を預ける香穂子が、空いている片手で王崎のシャツを掴んだ。
「……約束してくれるなら。一緒に、どこか遠くへ行く約束じゃなくていいから。……一つだけ、叶えて下さい」
「うん。……何?」
 ぎゅっと香穂子を抱きしめる腕に力を込めて、彼女の髪に頬を埋めて、王崎が尋ねる。
 涙に震える香穂子の小さな声が。
 王崎にだけ届く、願いを紡ぐ。

「王崎先輩が帰って来る時は。……一番に、私に、逢いに来て下さい」

 王崎は、そっと目を閉じる。
 うん、と小さく頷いた。
「何を置いても、一番に。……香穂ちゃんに、逢いに行くよ」

 どこに行っても。
 何をしていても。
 必ず、『ここ』に帰って来るよ。

 それが、これから離れ離れになる二人が抱き続ける。
 未来へ続いてくための、ずっと変わることのない約束。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.15】

私的BGM:My word~約束~(王崎信武)……だったんですけど、これを書いている間に巡ってたのは、むしろ「約束ーをしよーうよ♪」の方だった(笑)
ちょうど2fで先輩エンディングを見た直後だったので、今回の企画創作には結構その影響が出ています。

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