枕元に、きちんと紅茶と甘いお菓子を用意して、香穂子は壁に背を預けて、ベッドの上にちょこんと座り込む。開いた窓から入り込む春の香りを含む風が揺らすカーテン越しに、柔らかな月の光を見た。
やがて、いつもと同じ時間に鳴り出した電話に、急いで香穂子は応じる。こんばんは、香穂ちゃん、といつものように優しく告げる、待ち遠しかった穏やかな声。
「ごめんね、もしかして、もう寝るところだったんじゃない?」
受話器の向こうから、申し訳なさそうな優しい声。いつもと同じ時間なのに、そんなふうに気遣ってくれる王崎に香穂子は思わず笑って、首を横に振る。
「私、宵っ張りだから全然大丈夫です」
言葉には、ほんの少しの嘘が含まれる。
いつか、ヴァイオリンの練習をしている時に、眠そうに欠伸を噛み殺す姿を見られていて、譜読みをするのに夜更かしをして、辛いという話をしたことがあるから、そんなささやかな嘘は王崎にはバレているのかもしれないけれど。
王崎はそう?と笑って言っただけで、深く追求はして来なかった。
寝不足になるよりも、王崎と話ができることの方がずっとずっと大切なんだって、分かってくれているといいなと、こっそりと香穂子は思った。
週末の定期連絡は、ウィーンの街並の話や相変わらずのヴァイオリン付けの毎日のこと。特に連絡をする必要もなさそうな、繰り返す日常の話。
そういえば、こちらはもう桜が咲いたんですよ、と香穂子が報告したら、桜館の桜並木は綺麗だろうね、と母校を思い出したふうの王崎が羨ましそうに呟いた。
毎週、同じように電話をしているのに、いつもいつも、報告する事項には事欠かない。幾ら時間があっても足りなくて、会話を重ねれば、逢いたい気持ちだけがより一層募る。
夏休みには自分の勉強も兼ねて、王崎が送ってくれるチケットで、ウィーンまで逢いに行くつもりだ。チケット代だけが必要な旅費というわけではないから、そのために頑張ってバイトしなきゃ、と笑った香穂子に、無理をさせてごめんね、と王崎が謝った。
「私が逢いたいから、頑張るんです。無理じゃないです」
慌てて香穂子が言うと、「それなら……嬉しいんだけど」と、少しだけ困ったように王崎が笑った。
やがて、一週間分しかストックのない話題がつきて、香穂子は口籠る。
王崎の方も、報告することはなくなってしまったみたいで、二人の間に奇妙な沈黙が満ちた。
(……えっと)
会話が終わっても、電話を切る気にはなれなかった。
話せば話した分、やはり寂しさは募るものなのだけれど、それでもやはり、声だけでも聞けることが嬉しくて。
出来ればもう少しだけ、この会話を繋げていたい。そう思って、香穂子は何か言葉を探して、辺りに視線を巡らす。王崎も同じ気持ちでいてくれているのだろうか。通話の終わりを告げることはなく、何も言わないままの香穂子を、根気良く待っていてくれる気配がした。
「先輩? ……今日はね、満月なんですよ」
ふと窓の外を見上げた香穂子の視界に、柔らかな光を降らす、まんまるな月が見えた。だからどう会話を続けるという考えは全くなかったのだけれど、反射的に香穂子の口から、そんな言葉が滑り落ちた。
「そうなんだ。香穂ちゃんがいる場所から、月が見えているの?」
「はい。今の季節は窓を開けてると、桜の匂いもして気持ちいいから、開けっ放しにしてるんです。雲一つないいいお天気だから、月が綺麗に見えてます」
そう、と溜息のような王崎の呟きが、鼓膜の奥に滑り込む。
その声は、なんだかとても心地がいい、優しい響きだった。
「……ねえ、香穂ちゃん」
「はい」
突然名前を呼ばれて、香穂子は反射的に居ずまいを正して、その場に正座をする。
王崎の声に、どこか真剣な響きを感じたからだ。
「一つだけ、忘れないでいてくれるかな」
「……はい?」
王崎の言いたいことは、予測が出来なかった。だから、香穂子は頷きながらも首を傾げた。
少しだけ、受話器の向こうで躊躇する気配がする。
あのね、と切り出した王崎は、意外な言葉を口にした。
「おれは、ここで。……毎日、毎日君のことを想っているから」
離れ離れでも。
簡単に逢うことは叶わなくても。
それでも、目には見えない月であっても、必ず、空にはその存在があるように。
見えなくても、触れられなくても。
ずっとずっと、王崎は香穂子を想っている。
「君が頑張っていることを心の支えにして、おれもここで、頑張ってる。君は独りで頑張っているんじゃないから。……それを、絶対に忘れないでいて」
香穂子は、ベッドの上に正座をしたまま、ただ息を呑んで王崎の言葉を聞いている。
告げられた言葉が意外だったことは勿論だけれど……何よりも。
王崎に見せてはいなかった逢えない寂しさを、思いきり気付かれていたこと。
そのことに驚いた。
「不安になったら、月を見て、おれの今日の言葉を思い出して」
月灯りの下で、窓から入り込む春の風に風呂上がりの洗いたての髪を乱されながら。
淡々と。
世間話を告げるような声で、この言葉を告げる王崎は、今、どんな顔をしているんだろうと、香穂子は思う。
ふと、それを確かめることが出来ない現在の二人の距離を実感して、また香穂子は、否応なく寂しさを覚えるのだった。
それでも、その寂しさは香穂子一人のものではないと。
……香穂子が、独りぼっちなのではない。いつだって、王崎の心が側にいてくれるのだと。
たった今、王崎は教えてくれたのだから。
「じゃあ、先輩も。寂しくなったら月を見て、私のことを思い出して下さいね」
月も太陽も、地球の周りを一巡りして、違う面を見せていたとしても、放つ光を離れ離れの二人に降り注いでくれることは同じ。
それでも、何かと忙しい日中の太陽よりも、落ち着いて、その日一日の出来事を振り返りながら見上げる月灯りの方が、離れ離れの二人の心にはより一層、優しく暖かく、染み込んでいくだろう。
「わかった。おれもきっと、そうするよ」
穏やかに笑った王崎の言葉に、香穂子も思わず笑顔になる。
いつだって、優しく穏やかな笑顔で香穂子を見守っていてくれたことを覚えているから、今の王崎の表情は、きちんと想像が出来た。
もう少しだけ長く、他愛無い会話を続けて。
王崎との通話を切った時には、用意していた紅茶はすっかり冷めていた。
苦笑しながら、香穂子は冷たくなった紅茶の残りを一口含み、変わりなく香穂子の部屋に優しい光を降り注いでくれる月を斜めに仰ぎ見る。
ベッドの上を這うようにして窓辺に寄って。
窓枠を掴んで、もう一度、明るく夜空を照らし出す満月を見つめた。
満月が投げかけてくれる月灯りの下で。
無信心を誇る香穂子なのだけれど、その時だけ。
真摯な気持ちで、香穂子は両手を組んで目を閉じて。
月に、祈る。
私たちは、互いに独りきりではないから。
どんなに、日常が辛いと思う時であっても。
たとえ、迷っても、遠回りをしても。
見失わず、間違えず。
信じた道を、躊躇わずに歩いていけるように。
寂しさや、哀しさに耐え切れず、別の道にはぐれそうになる時には。
同じ月から降り注ぐ、全く同じものでは有り得ない光で。
遠い海の向こうで、変わらずに自分が抱き続けた夢を追いかけている人の。
時折闇に沈んでしまう、困難だけれど、彼が歩むべき。
……辿るべき道を、絶えず照らしてくれるように。
それを願う、香穂子の想いこそが。
いつでも、彼を支え続ける、優しく強い、光であるように。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.12】
先輩も月森と同じ遠距離恋愛になるわけですけども、悲愴感が漂わないのはひとえに人格の所為なのか(笑)
私的に、王崎らしい話を書いたかなという気がしています。何事も前向きで、あるがままを受け入れる。そういう火原とはまた違う器の広さがこの人にはあると思うのです。


