夕闇

王崎×日野

 ちかちかと街灯が瞬いて、柔らかな明かりを暗くなった往来に投げかける。
 ふと、夕闇に落とされた光に王崎は視線を上げ、そしてまた、先程から見つめていた自分の足元へと視線を戻した。
 道を辿る自分の爪先の側に、自分のものよりもとても小さな爪先が見えている。彼女の歩調に合わせると、自然と王崎の足取りは、普段よりもゆっくりになる。
 本当は、少しだけ歩く足を早めて、自分のペースで歩いてみたとしても、彼女は敏感にそれを感じ取って、きちんとついてきてくれることを知っている。
 それでも敢えて、彼女の歩調に自分の歩調を合わせる理由は、とても単純なことで。
 ……まだもう少しの間、王崎の方が彼女と一緒の時間を過ごしていたいから。少しでも長く、彼女の隣を歩いていたいからだった。
(こんな気持ちは、初めてだ……)
 ふう、と吐いた溜息は、白く目に映るものになって12月の冷たい大気の中に浮かんで消える。
 隣を歩く香穂子は、すぐに王崎の小さな溜息に気がついて、怪訝そうな表情で顔を上げた。


 離れてからこそ、見えるものもある。
 頑張り屋で、いつも真直ぐな彼女。
 応援したい、支えたいと思っていたはずの彼女が、むしろ王崎を支えるほどの力を内に秘めていることを知ったのは、遠くはない過去の話。
 海も時間も隔てた遠い異国の地に独りで立った時、彼女からの電話やメール、与えてくれる言葉の一つ一つに、どれだけ寂しく不安だった心は勇気づけられていただろう。
 ……そんなふうに、自分が慣れない場所で知らないうちに畏縮していたことも気付いていなかったから、彼女の何気ない暖かさが、考える以上に身に染みた。
 彼女の方には、そんな気はなかったのかもしれない。励ましたいとか、支えたいとか。
 ただ、いつだって王崎が自分では意識しない不安や恐怖を、彼女のいつでも変わらない暖かい想いが癒してくれた。

 夕暮れは、彼女の色。
 目に鮮やかな茜色。優しく暖かく、王崎という存在を包み込む。
 そして、忍び寄る夕闇。
 暗い色の中に彼女の色を溶け込ませて奪い去り。……離れ離れにならなければならない現実を突き付ける。
(寂しいんだ)
 隣に、君がいないこと。
 それは、決して心が離れるわけではなくて。
 クリスマスイブの日に告げた想いは、決して変わらないのだとしても。
 時がきて、周りが夜の帳に包まれたなら、自分達は別々の場所へ帰らなければならない。
 たったそれだけの些細な現実が、どうしてこれほどまでに寂しく思えてしまうのだろう。

「……王崎先輩?」
 不安げに揺れる彼女の声が、王崎の意識を現実に引き戻す。一つ瞬きをして彼女を見下ろすと、先程からずっと王崎を見つめたままの香穂子が眉をひそめた。
「大丈夫ですか?」
 香穂子の問の意味が分からない。王崎は苦笑する。
「大丈夫だよ。……どうして?」
 尋ねると、香穂子も確かな根拠があったわけではないのだろう。少しだけ困ったように首を傾げて、自分の中に懸命に答えを探しているようだった。
 やがて、香穂子が困ったような表情のまま、ぽつりと呟いた。
「……何だか、先輩が。寂しそうに見えるから」

 夕闇は、夕焼けの紅を隠す色。
 暗い色でゆっくりと忍び寄り、空にその残像の赤を残しながらも、いつの間にか闇の中に暖かなもの全てを呑み込んでしまう。
 香穂子が側にいれば、確かに心は、暖かく優しいもので満たされるのに。
 離れて、その存在が見えなくなった途端、簡単に闇は王崎の心を蝕む。
 ……そんなふうに、人は何か大切なものを掴んだ途端、その大切なものを守るために強くなり。
 失う怖さに、どうしようもなく弱くなることを。
 王崎は香穂子を手に入れてから、初めて知ったのだ。

「……香穂ちゃん」
 静かに呼び掛けると、はい?と屈託なく彼女が応じる。
 口にすることは、その場限りのごまかしで。
 彼女と過ごす一日の終わり、お互いの暮らすべき場所へ帰るたびに、同じ夕闇の静けさは足元に忍び寄ることを知っていたけれど。
 それでも、ちょっとした時間稼ぎの幸せに、もう少し騙されていたい。
「時間が大丈夫なら。夕食でも一緒にどうかな? おれのお気に入りの店へ案内するよ」
 本当ですか?と嬉しそうに頬を染めて笑った香穂子に、王崎もほんの少し、自嘲混じりの小さな笑みを浮かべる。親に連絡しますね、と慌てた様子で携帯を取り出し、電話をかけ始めた香穂子に背を向け、王崎はまた一つ、長い溜息を吐いた。

 少しだけ、一緒にいる時間を長くして、誤魔化してみたとしても。
 それでも、永遠には側にいられないのなら。
 毎日、毎日、彼女と離れるたびに繰り返し、この胸は寂しさに苛まれる。

 それでも、その夕闇の訪れの前に来る、鮮やかな夕焼けの暖かさをも、同時に知っているからこそ。
 その次に来る、どうしようもない寂寥感に怯えながらも。

 決して、彼女に逢いたがる気持ちを、押さえることは出来ないのだ。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.12】

王崎先輩は、結構お題の雰囲気が片寄っていた気がします。前回の土浦と同様に(苦笑) そんな中で書き分けていきましたが、うーん、若干雰囲気が被っちゃうものがあったかな……?
どうしても私が夕暮れとかを寂しい印象で捉えてしまいがちだからってこともありますが。

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