ファータの加護があった。
新しいものに臆しない持ち前の好奇心と、与えられたものに真摯に取り組める誠実さがあって、香穂子は今、ものすごい勢いでヴァイオリンにまつわるいろいろな知識と技術とを吸収している。
何と言っても、一番驚くのがこの集中力だ。
香穂子はあまり、体格がいいと言うわけではないし、王崎から見れば四肢は華奢で、そんなに体力があるようには思えない。だが、結構な重労働であるはずのヴァイオリンの演奏を、彼女は飽きることなく、長時間ぶっ通しで続けることができる。
終わった後には、きちんと体力と体格に見合っただけの疲労感は感じるようで、上手く周りが止めてやらないと糸が切れた人形のようにへばってしまうので、そこだけは困りものなのだが。
それでも、演奏を続けている間は彼女の集中力は途切れない。
ひたすらに、ヴァイオリンだけを見つめて、ヴァイオリンが秘めるたくさんのものを吸収しようと貪欲だ。
……馬鹿げているのだとは思うけれど。
ほんの少し、彼女のヴァイオリンが羨ましい。
「……どうして、そういう話になっちゃうんですか……?」
驚いたように、香穂子が目を丸くして言った。
王崎は、自分の中に生じたそういう気持ちを彼女に隠そうとは思わない。
言うべきこと、言ってはいけないことがいろいろと混在する現実と言うものはそれなりに分かっているけれど、こういう気持ちは別に隠すほどのことでもないだろう。
集中力、大いに結構。それが彼女のヴァイオリン奏者としての実力を飛躍させているのなら、同じヴァイオリニストの端くれとして歓迎すべきことだ。
だがやはり、彼女の恋人としての自分を顧みると、彼女の心が自分以外の何かにひたすらに向けられていることは、ちょっとだけ寂しくて、面白くない。
「香穂ちゃんが、ヴァイオリンに夢中になるくらい、おれに夢中になってくれたら嬉しいのに」
笑い混じり、冗談混じりの口調だけれど、それでもまぎれもない本心を忍ばせて、王崎は呟く。
こんな気持ちが自分の中に生まれるのは、正直王崎自身も意外なことだった。
「……夢中、ですけど」
王崎先輩に、と。ぽつりと香穂子が呟く。
目を見張って、王崎が斜めに隣を歩く香穂子を見下ろす。
拗ねたように唇を尖らせた香穂子の、その頬が赤い。
「ヴァイオリン、もちろん好きですけど。どうせなら上手くなりたいから、練習もしますけど。それだけだったら、こんなふうに一生懸命になったりしません……」
つまずいていたフレーズが綺麗に流れるようになったら、自分のことのように喜んでくれる人がいる。
精一杯の感情を込めて弾いた旋律を、きちんと受け止めてくれる人がいる。
香穂子がヴァイオリンを弾くのは。……ヴァイオリンに夢中になるのは、きっとそんな理由があるから。
どんなにヴァイオリンを弾くことが楽しかったとしたって、聴いていてくれる人がいないのなら、音楽というものは、ほんの少しだけ寂しいものになってしまうのだから。
「先輩のために、弾いているのに」
少しだけ誇張された、偽りのある言葉。
きっと王崎がいなくても、手にしてしまった以上香穂子はヴァイオリンを弾くだろう。
音楽、ヴァイオリンが好きな気持ちに決して嘘はないのだから。
それでも、こんなふうに自分の全身全霊をかけて夢中になれるのは、香穂子の想いを乗せて歌わせるヴァイオリンの音色を、聴いて欲しい人がいるからだ。
伝えたい想いがあるから、知って欲しい気持ちがあるから、それが本当に正しく、全て伝えられるように、香穂子はヴァイオリンの技術と知識とを磨くのだ。
「……そう、なの?」
意外そうな王崎の言葉。
拗ねてみせるのは、恥ずかしいという理由もあるのだけれど、そんな香穂子の本心が、一番受け止めて欲しい人に全く伝わっていないことを知ったから。
「そうですよ」
爪先で地面を蹴って、恨みがましく香穂子が呟く。
そうなんだ、と王崎が繰り返した。
彼女がただ、ひたすらに。
音楽に、ヴァイオリンに向き合って、懸命に上達しようと足掻くのは。
それは、全て。
好きな人に、好きな気持ちを、ヴァイオリンを通して伝えたいから。
凄く良くなったよ。上手くなったよって。
優しく笑ってくれる人の、その笑顔が欲しいから。
そのことを知った途端。
何だか、急に。
彼女への愛おしさが湧いてきて。
歩く足を止めて、王崎は香穂子の腕を捕まえる。引っ張られて、否応なく立ち止まった香穂子を引き寄せて、ぎゅっと両腕の中に閉じ込めた。
「ふええっ、王崎先輩!?」
珍妙な叫び声をあげて、香穂子が王崎の腕の中でもがく。
じたばたと暴れる香穂子をもう一度強い力でぎゅっと抱き締めて。
それから王崎は、なだめるみたいに香穂子の髪を撫でながら、ゆっくりと目を閉じる。
「ありがとう、香穂ちゃん」
穏やかで柔らかな王崎の声に、香穂子がぴたりと暴れるのを止める。
そっと身を起こして腕の中の彼女を覗き込むと、真っ赤になった彼女が、それでもまだ怒ったような顔で、上目遣いに王崎を睨んだ。
「……先輩を蔑ろになんて、してませんから」
「うん」
「何よりも、先輩に夢中、なんですからね!」
「うん。……充分、分かったよ」
聞きようによってはものすごい愛の告白なのに、何でおれは怒られてるのかなあと苦笑しながら、王崎は身を屈めて彼女に頬を寄せる。
ただ、ひたすらに。
優しいキスを街灯の下で繰り返し。
二人はその口付けの甘さに。
しばしの間、夢中になった。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.12】
書き続けていて、キャラクターの輪郭が自分できちんと捉えられてくると、どうにでも応用が効くようになるので、それが嬉しいです(笑)
今までは、こういう王日って書けなかったよなあと思います。ドラマCDとかの影響もあるのかな。あの方の演技は、「実は先輩って黒いんじゃないの!?」って思わせるには充分ですからね!(笑)


