つい許してしまう

王崎×日野

 駅前通りの時計台の下で、王崎は自分の腕時計の文字盤を確かめた。
 ちょっと見上げればちゃんと誰にでも分かりやすい大きな時計があるというのに、ついつい自分の腕時計で時刻を確かめてしまうのに苦笑する。
 時計の針は長針と短針が、真上で重なる時間から、もうすぐ一回りする頃だ。一緒に昼食をとるつもりだったから、待ち合わせからはもう一時間を過ぎている。
(大丈夫かな……香穂ちゃん)
 遅れて、慌てて。途中で転んで怪我なんかしていなければいいけれど、と王崎は時計の文字盤から視線を外す。人混みに何気なく視線を向けてみると、その波をかき分けるようにして、華奢な身体が走って来るのが見えた。
(ああ、やっぱり)
 想像通りの慌てて走って来る彼女がそこにいて、王崎は思わず、委細構わずに大声を張り上げる。
「香穂ちゃん、大丈夫だから。そんなに慌てて走らないで!」
 道行く人にぶつかって、香穂子がすみません、と慌てて頭を下げたのが見えた。王崎の声に気付いた彼女は、こちらの方に顔を上げて、王崎の姿を確認して。それから、王崎の大声の意味なんてこれっぽっちも分かっていないように、また慌てて走り出したのだった。

「……っめん、なさい! 出がけに、お父さんの忘れ、もの……届けなきゃ、いけなくなって……!」
 王崎の元に辿り着くなり、深々と頭を下げた香穂子が、息も絶え絶えに、開口一番謝った。慌てた王崎が、香穂子の肩を掴む。
「ああ、いいから、香穂ちゃん。呼吸が落ち着くまで、ゆっくりして」
「だって、一時間も!」
 がばっと顔を上げて、涙目の香穂子が叫ぶ。
 休日出勤の父親が、今日の会議に必要な書類を忘れていった。昼に王崎との待ち合わせがあったものの、時間に余裕があったのは香穂子だけだったので、届ける役目を任された。……そこまではいい。
 父の会社は王崎と待ち合わせた駅前通りとは反対方向の、電車で数駅越えたところにある。書類を届け、いざ待ち合わせの場所まで、と電車に乗り直した香穂子だったが、途中で何かトラブルがあったらしく、電車はまんまと止まってしまったのだ。そしてこんな日に限って、携帯の充電が十分ではなかった。父と書類を届ける件で何度か通話やメールのやりとりをしていたので、帰りの電車に乗る頃には、携帯の電池が底をついていた。王崎に連絡を取ろうにも、携帯は使えないし、どこかの公衆電話から、と思ってみても、そもそもの王崎の携帯電話の番号は電池切れの携帯の中に保管してあるのだから、連絡の取りようもない。しばらく、動かない電車の中でイライラと運転再開を待っていた香穂子だったが、とうとう痺れを切らして、ここまでの数駅分を走って来たのだった。
「そこまでしなくても、おれは帰ったりしないのに。ホントに香穂ちゃんは、時々びっくりするほどの無茶をするね」
 苦笑しながら、王崎がジーンズのポケットから自分の綺麗に折り畳んだハンカチを取り出して、汗に濡れた香穂子の額を拭ってくれる。すると、弾かれたように顔を上げた香穂子が、キッとそんな王崎を睨み付ける。思わず王崎が動きを止めて、半歩後ずさった。
「駄目ですよ、王崎先輩!」
「駄目って……何が……?」
 困惑する王崎の胸元に、香穂子が指先を突き付ける。
「私のドジで、先輩一時間も連絡なしに待たされて。こういう時には、ちゃんと私の事怒って下さい!簡単に許しちゃ駄目です!」
 ……何でおれが怒られる羽目になってるのかなあと内心首を傾げながら、それでも王崎は、小さく笑う。
「……それは、無理だよ」
「何で!?」
 間髪入れずに聞き返す香穂子の頭を、片手を乗せて、ゆっくりと撫でて。
「だって、香穂ちゃんが理由もなく、連絡なしに遅れたり、すっぽかしたりするわけがないからね」

 王崎だって、別に聖人君子ではないのだから、理不尽な扱いを受ければ怒りたくなるし、嫌だと思うこともある。だが、香穂子が特別な理由もなく、約束に遅れたり、その約束を反古にしたりするはずがない。万が一、そんな事態に陥るのであれば、何かしら、退っ引きならない事情があるのだ。
 今まで、少しも離れることなく彼女を見ていたわけじゃない。
 だが、それだけ盲目に信用出来るくらいには、王崎は彼女という人間を知っているつもりだった。
「現に、今日だって遅れる正当な理由と、連絡出来ない事情があったわけじゃない? だったら、おれが君を怒る必要なんてないでしょ?」
 ……そんな、どうにもならない状況にありながら、香穂子は少しでも早く王崎の元へ辿り着くために、走り通しで無理をして、ここまで来てくれた。理由を話すよりも先に、懸命に謝ってくれた。
 それだけで充分。
 香穂子がその時の香穂子にできる精一杯で、王崎の元へ辿り着く最善の方法を選んで、実行してくれたのだから。
 連絡なく待たされて、彼女に何かがあったんじゃないかと怖くなって。
 どうしようもなく不安だったことも、つい許してしまう。

「……うう」
 小さく唸る香穂子が、何も言えずにただ、ぎゅっと片手で王崎のシャツを掴む。
「……遅れちゃって、ごめんなさい」
 王崎本人に怒る理由がないと言われてしまっては、もう責めてもらうことも出来ないので、香穂子はただ、繰り返し謝る。
 王崎は、また苦笑して。自分のシャツを握り締めた香穂子の手の甲に、そっと自分の手を重ねる。
「おれに謝ってくれるなら、そこじゃないよ」
 ……香穂子が理由もなく、連絡もせず、遅れたりすることはないと分かっていた。
 だから、現れない彼女を待つ間、王崎の心の中を占めたものは。

 香穂子は、しばしの間思案する。
 王崎の言葉を、頭の中で繰り返して。
 ……もし、自分が王崎の立場だったら、と考えてみて。
 そして、香穂子なりの解答を導き出す。

「……心配をかけて、ごめんなさい」
 きっと、香穂子も。
 王崎が待ち合わせに遅れて来たり、来なかったりしても。
 すっぽかされたとか、そんなふうには思わない。何か、余程のことがあったんだろうと、彼からの連絡を待つだろう。だが、そんな時に香穂子の心を占めるのは、おそらく。
 ……何か良くないことが王崎の身に起こってしまったんじゃないだろうかという、心配と不安。

 香穂子の言葉に、ようやく王崎は穏やかに微笑んで。
「香穂ちゃんに何もなくて、よかったよ」
 と、優しく囁いて。

 そして、全速力で王崎の元へ辿り着いてくれた香穂子をねぎらうために。
 向かい合わせで、両手を繋いで。
 触れるだけのキスを、汗に濡れた香穂子の頬に与えてくれた。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.12】

その節は、関係各者の方々に大変な御迷惑を……(--;)
ということで、旅行先で単独行動をしていた際、携帯を電池切れさせて行方知れずになったのは私デース。
しっかし、ああいう時に限って、近くに充電出来る場所がないんですよね。今になって考えてみれば、桜木町駅付近の、カラオケ屋に飛び込めば良かったのか?

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