囚われ人

王崎×日野

 ウィーンに行くことにしたんだ、と告げた王崎の声を、香穂子は妙に納得しながら聞いていた。
 ここのところ陰りがちだった彼の表情が、久し振りに明るい。ならば、それで充分だと香穂子は思う。
 ……告げられた現実が、自分にとって、幾ら淋しいものになるのだとしても。




「違う世界に目を向けたのは、おれの方なのにね」
 自嘲するように笑って、王崎がぽつりと呟く。香穂子は隣で、そんな王崎を気遣わしげに見つめる。
 ウィーンで行われた国際音楽コンクール。そこで優勝して以来、王崎を取り巻く環境は一変した。CD発売に、コンサートの開催。『王崎信武』という名前だけが一人歩きをして、本当の王崎はいつしか取り残されていた。
 自分を取り巻く環境はとっくの昔に変質していたのに、以前の『王崎信武』という殻に、王崎自身はずっと囚われたままだった。
「勿論、おれの気持ちは変わっていないんだ。いろんな人に、音楽の楽しさを知って欲しい。そのためにおれのヴァイオリンはあるんだって……そのために、おれはヴァイオリンを弾いてるんだって、今でもそう思ってる」
 だが、より広い世界に目を向けたのは、王崎自身だ。
 ならば、分かっていなければいけなかった。
 以前のように、自分の手の届く範囲内だけに、気を配っていればいいわけではないこと。
 新しい世界へ足を踏み出すのならば、その心構えも以前と同じ感覚でいてはいけないのだということを、王崎はずっと理解していなかった。
 自分が変わらなければ、周りも変わらないと思い込んでいた。
 気持ちだけでそう信じていたって、周りの環境は、その変化を許してはくれないのに。
「……王崎先輩」
 ぽつりと香穂子が呟く。
 呼びかけに応じ、香穂子を見つめてくれる王崎に言える言葉を、香穂子は迷う。しばし躊躇って、それから香穂子は恐る恐る口を開いた。
「先輩の気持ちが分かるって言ったら、多分烏滸がましいんですけど。……でも、私にもその先輩の寂しさは、少しだけ分かるかもしれない……」
 ……香穂子の気持ちも、あの時と変わっていない。
 学内コンクールに参加して、音楽を奏でられる喜びだけを胸に、懸命に与えられた課題をこなしていた、あの頃。
 まだ1年も経っていないのに、もう随分と遠いように思えるあの時と同じように、香穂子は今もただ音楽が好きで、ヴァイオリンが好きで、与えられた目の前の課題を、懸命にこなしているだけなのに。
 図に乗ってるんじゃないかと。
 実力も、資格もないのに、いい気になるなと陰口を叩かれる。
 支えてくれる人達がいるから今も香穂子は頑張れるけれど、そんな優しい存在がいなかったら香穂子は周りが自分に向ける負の気持ちに、押しつぶされていただろう。
 香穂子もまた、自分自身が作り上げたものではない『日野香穂子』という殻に囚われていて、息苦しい。
 本当の自分を分かってもらえなくて、誤解されていることが寂しくて。
 それ以上誰かにとっての自分の像が変わってしまうことが怖くて、どこにも行けなくなる。
「だから、そんなふうに自分が自分じゃないみたいな。……全然違う自分を『これがお前だ』って言われてるようなそんな寂しさなら。……私でも、少しは分かる気がするんです」
「……うん」
 王崎は頷く。
 周りが否応なく変化していく時に、王崎にとって、変わらない香穂子の存在は救いだった。
 自分自身では何一つ変わったつもりはないのに、ただ少しだけ、自分の音楽を届ける舞台を広げてみただけで、これまで信じていた地盤は脆くも崩れ去った。
 そんな中、香穂子だけはいつも変わらず、側にいてくれた。
 これまでと変わらず、自分を頼ってくれて、近くで笑ってくれて。
 ただ、変わらないでいてくれること、それだけで、どれほど寂しい心は癒されただろう。
 それはきっと、香穂子が王崎と同じ寂しさを、自分の経験として知っていたからだ。
「だから……ウィーンで音楽活動やってくこと、先輩が自分自身で決めて、それで先輩の心が自由になれるんなら。私は、それでいいって思うんです」
 ……王崎もまた、変わらない人だった。
 香穂子がどんな立場に立つことになっても、何をすることになっても。
 それもまた、君自身の役に立つことだよと、笑って見守っていてくれた王崎の存在は、香穂子にとっての救いだった。
 そんな暖かで優しい人が自分の側からいなくなってしまうことは、香穂子にとっては痛くて、寂しい。だけど、そのことで王崎が、また以前のように、屈託なく音楽を愛し、自分の音楽を貫き通せるのであるならば。
 香穂子の些細な寂寥なんか、呑み込んでしまえる。
「頑張って下さい、王崎先輩。私はずっと、応援してますから」
 笑って、香穂子は告げる。声が涙に震えないように、ちょっとだけ気を使った。
「……日野さん」
 低い声で、王崎が呟く。はい、と香穂子が丁寧に答えた。
「日野さん、だけどおれは……」
 言う言葉に迷って。
 何度も躊躇って。
 それから、王崎は一つ息をついて、わずかに頬を染めて、真直ぐに香穂子を見つめる。

「おれは、きみにだけは。これからもずっと……囚われていたいんだ」


 永遠に変わらないものなどないのだと、思い知らされた。
 王崎自身も、自分が踏みしめる地面の位置に合わせて、自分自身の音楽の方向性を、変えていかなければならないのだろう。
 だが、確かに。
 幼い頃からずっと抱き続けてきた、音楽、そしてヴァイオリンに対する思いは、今も変わってなどいない。
 これからもずっと。自分の周りがどれだけ変化しようとも、未来永劫変わることはないだろう。
 だから、せめてその『不変』を。
 香穂子という存在が、ずっと抱き締めていてくれたなら。
 変わらない王崎を、ただひとり、彼女だけが愛していてくれるなら。

 どこに行こうとも。
 何をしていようとも。

 きっと、王崎の心を満たす幸せは、変わることがない。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.9.6】

ちょうど、2fアンコで王崎をクリアしたところだったので(笑)
自分が変わったつもりがないのに、周りにアイツは変わったって言われるのは辛いなと思うのです。……そんな歌がどっかにあったな(笑)
でも、そんなふうに周りが自分を変わったと捉える中、変わらないと分かっていてくれる存在は有難いと思う。だから、そういう存在への執着みたいなものが書いてみたかったんです。分かりづらいけど。

Page Top