未来へのパスポート

吉羅→←日野

 森の広場のベンチに座って、その傍らに分厚い本を山積みにして読書に勤しんでいる日野香穂子を、猫缶片手に広場に足を踏み入れた金澤が発見する。
 ここでヴァイオリンの練習をしている彼女を見る事は珍しくないのだが、読書をしている彼女にはあまりお目にかかったことがない。掌の上に未開封の猫缶を弾ませながら、金澤は彼女がいるベンチの方へ、芝生を踏みしめて近付く。微かな足音に気付いた香穂子は、金澤が声をかける前に肩越しに背後の金澤を振り返った。
「よう。こんなところでまで読書とは、なかなか勉強熱心じゃないか、お前さん」
 金澤が片手を挙げながら彼女のすぐ側まで歩み寄り、一体何を熱心に読んでいるのかを覗き込んで確認しようとすると、それよりも早く、彼女の片手が伸びて、金澤の白衣の裾を掴んで引っ張った。
「な……?」
「これ、よく分からないから詳しく分かりやすく噛み砕いて教えて下さい金澤先生!」
 驚く金澤に、片手に握った分厚い本を掲げつつ、必死の形相の香穂子が、一息で叫んだ。

「なんだあ? 楽典か?」
 彼女が読んでいた本をベンチの隣に座ってぱらぱらと捲り、膝の上でパタンと閉じて、金澤はそれを香穂子に突き返した。両手で受け取った香穂子は、それをそっと抱き締めて、頬を赤らめつつ「取り乱してスミマセンでした」と先程の非礼を詫びた。
「まあ、音楽はただ演奏することだけが全てじゃないから、技術以外の基礎を学ぶことは感心なことなんだがなあ……」
 香穂子が傍らに積み上げた音楽関連の分厚い本の山を見つめ、金澤は溜息を付く。学ぶ姿勢は教師から見て大いに結構、というところだが。彼女に関しては、そもそも本格的に音楽を志す人間ではない。ヴァイオリンを弾けるならそれで十分という、どこか呑気な雰囲気があったのに、この変貌ぶりはどうだろう。
「それなりに周りから演奏を認められるようになるためには、演奏の技術だけじゃなくて、その楽曲の裏側とか、作曲された頃の時代背景とか……もちろん、演奏の知識のあれこれとか、覚えなきゃいけないことがいっぱいあるんじゃないかって……」
「……それについては、否定はしないがな」
 俯いて、自分の膝頭を見つめながら訥々と語る香穂子に、金澤はがりがりと片手で、伸び切った髪を掻き回す。向上心は評価するべきところだが、あまりにも彼女のこれまでのヴァイオリンに対する姿勢と比べると、変化が急激過ぎる。
 元々、そういう野心を持つ性格ではないと知っているから、余計にのめり込んだ時の反動が恐ろしい。
「勉強意欲を持つことも悪いことじゃないとは思うが……一体どういう心境の変化だ?」
 膝の上で頬杖を付いて、斜めに香穂子の顔を覗き込むと、自分の膝頭を見据えたままの香穂子が、ふと瞬きをした。
「……理事長が」
「……は?」
 意外な人物の登場に、金澤が片目を細めて怪訝な表情を作る。
 増々俯きがちに背中を丸めながら、香穂子が消え入るような小さな声で呟いた。

「理事長が……私が立派な演奏家にならないと、私の事を一人前として、見てくれないから」


「おい、吉羅ぁ」
 理事長室の前で、金澤は目的の人物がちょうど部屋から出てきたところで、間延びした声を上げた。声の方へ視線を流した吉羅が、気心の知れた尊敬する先輩の登場に、その表情を綻ばせる。
「ああ、金澤さん。今お帰りですか?」
 何だったら、食事でも一緒にどうです?と挨拶のように誘いの言葉を口にする後輩の首に、歩み寄る勢いのまま、金澤は腕を巻き付ける。
「金澤さん?」
 そのまま引きずられそうになる吉羅が怪訝そうに眉を寄せる。そんな後輩にちらりと視線を向け、金澤は吉羅の車が置いてあるはずの駐車場の方角へ、爪先を向けた。
「食事、ちょうどいいな。俺の話に付き合え」
「はい、……それはもちろん構いませんが」
 あっさりと承諾した吉羅に、金澤は溜息を付いて彼の身柄を解放する。吉羅は金澤に付いて同じ方向へ自分の足で歩きながら、乱れた襟元を神経質に整えた。
「……日野のことだが」
 前触れなく、単刀直入に金澤が切り出す。神妙な金澤の声に、不思議そうな表情で吉羅は首を傾げる。
「彼女がどうかしましたか?」
「とぼけるなよ。お前、言ったんだろう? 皆に認められる一流の演奏家として身を立てなきゃ、あいつを認めないって」
 ぴたりと足を止めた吉羅を、数歩先へ進んだ金澤が振り返る。しばらく何事かを考えていた吉羅は、ややして唇を歪めて小さく笑った。
「……ああ。そういう雰囲気の事は、確かに言いましたよ」
「日野は、アンサンブルコンサートやコンミス。お前が提示した無茶苦茶な要求を、全て呑んでこなしてきたじゃないか。それでもまだ、日野の頑張りをお前は認めてやれないのか?」
 向上心は大いに結構。
 彼女が本格的に演奏家としての道を模索し始めたのなら、それも悪くはないだろう。
 だがそれは全て、彼女が自分の意志で選んだことであるならば、だ。
 おそらくは、彼女はまだ、自分自身では未来の演奏家としての自分のビジョンを描けていない。
 よくも悪くも、そんな大層で不安定な夢は、簡単に思い描けない。とりあえず手の届く場所にある夢を少しずつ追っていくタイプの人間だ。
 ならば、急激に方向転換された道筋に、振り落とされてしまう可能性がある。基本的に真面目な少女であるから、尚更だ。
「お前さんは、日野を潰したいのか?」
「まさか」
 金澤の厳しい物言いに、怯むことなく吉羅はその唇に笑みの形を残したまま、視線を伏せる。
「私は私なりに、彼女という弾き手を評価していますよ。……私が提示した様々な難題をクリアしてきた実績から見ても、彼女の才能も、その根性も、一流の演奏家となるためには申し分ない」
 だからこそ、と吉羅は言う。
「だからこそ、彼女には課題を与えることが必要なのですよ。何せ、あの子には野心と言うものが全くない。ヴァイオリンを弾いていればそれで満足、などと随分呑気なことを言う。……私としても、あの才能が世の中に認められることなく、ただ埋もれて、枯れていくのを見るのは、本意なことではないのですよ」
「……だがなあ」
 苦渋の表情を浮かべ、金澤が尚言い募ろうとするのを、吉羅は片手を挙げて制した。
「それに、金澤さん。先ほどの私の答えを思い返してみて下さい。……私は、『そういう雰囲気の事を』言ったのであって、彼女の努力や演奏を認めないとは一言も言っていない」
「……はあ?」
 訳が分からずに、金澤は眉間に皺を寄せて、大声を上げる。吉羅を横目で見ると、前方を見据えたままの吉羅は、何故か妙に嬉しそうに、小さく笑ったのだった。
「私は彼女に『君が私の恋人として私に認められるようになるには、まずは充分に大人になって、更に一流の演奏家になってもらわなければならない』と言っただけです」
「……」
 金澤は、絶句して吉羅の横顔を凝視する。
 ややして、はあ、と大きな溜息を付いて、片手で額を押さえた。
(日野のやつ、よりにもよって、こんな厄介な男に惚れやがって……!)

 きっと、彼女自身は一流の演奏家になるなんて、大層な野心は抱かない。
 ヴァイオリンが自由に弾ける、そのささやかな幸せで、自分の心を満たすことが出来るだろう。
 だが、『それ』ではない本題が、一流の演奏家という道の先にあるのであれば、彼女は躊躇なく、真摯にそれを目指す。
 彼女のその誠実さを全て理解していながら、吉羅はわざと、吉羅自身の目的のために、無理難題を彼女の目の前に積み上げるのだ。
「……それで、日野に何かがあった場合、お前さん、責任が取れるのか?」
「勿論」
 言質を取るために問うた金澤に、吉羅は即答する。
 真直ぐに金澤を見つめ返し、不敵に笑ってみせる。

「例えそれで彼女が道半ばで挫折することがあれば、きちんと私が引き取って、責任を取るつもりですよ」

 それは、結局のところ彼女が一流の演奏家になろうがなるまいが、彼が彼女を手に入れることを決めているという意志の現れで。
 「……ああ、そーですか」と、金澤は余計なお世話でしかなかった自分の行動を、ほんのちょっと後悔するのだった。



 願った場所に辿り着くために、何の犠牲も努力も払わないのであれば、辿り着いたその場所には達成感も満足感も、何一つ残らない。
 彼女の目指すものが、当たり前に、簡単に。
 容易く手に入るものだと自惚れて欲しくはない。
(音楽も……そして、私も。ね)
 だから、彼女の未来にはハードルを用意する。
 簡単には、願ったものが手に入らないように。
 それを難しいからとあっさり諦める人間だとは思わない。手に入らないとなれば、手に入れるために鋭意努力を惜しまない人間だ。
 だからこそ、その努力を支払った後に手に入れる未来には、充分な達成感と満足感とが得られるだろう。
 ……何よりも。
 『そう』までして彼女に欲しがられる『自分』という存在は、悪くない。

 だから、彼女には手に入れて欲しい。
 それはもう、彼女だけのものではない、吉羅の願いでもある。

 一流の演奏家という肩書きと。
 そして、吉羅という存在を手にする未来のために。

 彼女が得るべきパスポートを。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.31】

理事黒いなー(大笑)
今回、理事を書くにあたって気を付けていたのが、語尾に「たまえ」と付かなくても理事らしく台詞が読めるように書くこと……(笑)
理事は私の中で位置付けが月森に意外に近いので、書きやすいです。後は、読み手様達に理事らしく書けているかを認めてもらうだけ(笑)

Page Top