自分と同じように、ファータを目にする人間だから?
亡くなった姉と同じように、真摯にヴァイオリンを愛する人間だから?
……考えて、その理由がどれも、ただのきっかけに過ぎなかったことを知る。
彼女という人間が存在することを、知るためのきっかけ。
理事長室にそっとヴァイオリンの音色が滑り込んで、何気なく、吉羅はカーテンを押し開いた。
それなりに鍛えられた耳だから、一音を聴いた瞬間から分かっていたはずなのに、目に入る場所で演奏をする生徒が彼女ではないことに、やはり落胆する。
練習をしている音楽科の女生徒。音楽科に在籍しているだけあって、技量はそれなりのものだが、吉羅の心にそれは響かない。よくも悪くも、吉羅の奥底、心の中心を揺らすのは、彼女の音色だけだ。
何が違っていたのだろう。
他の生徒と、何が。
窓越しに、ヴァイオリンを弾く女生徒を眺めていて、いつしかその姿に、彼女の面影が重なった。
決して上手いと言える演奏ではなかった。
出逢ってしばらくして、その理由が分かった。
彼女はファータの導きにより、ヴァイオリン……音楽の世界に足を踏み入れた人間。……数カ月前までは、音楽に関わりあいのない人間だったのだ。
知識も技術も足りなくて……ただ、その分彼女は、音楽に対して誠実だった。
いつかヴァイオリンで自分が身を立てること、そのために必要になる諸々を気にすることはなく、ただ音楽を奏でられる喜びだけで、ヴァイオリンを弾いていた。
その純粋さこそがファータに愛された理由で、そして、彼女の音色の魅力だった。
……厳しいことを言ったり、押し付けたりしたのは、逆境に屈することのないしなやかさを彼女に求めたからだ。楽しいという心一つで、一流の演奏家と呼べる域に辿り着くことが出来ないのは、吉羅にも良く分かっている。
そもそも、彼女は音楽一本で身を立てようなどという気持ちはさらさらなかったのかもしれない。それでもあえて、音楽という道で生きていける強さを彼女に求めたのは、吉羅自身が彼女の音色を埋もれさせてしまうことを、惜しんだからだ。
(君の音色は、万人の耳に届かせるべきものだ)
音楽というものが、人を屈服させるためのものではなく。
ファータ共の言う通り、安らぎと喜びを与えるものであるならば。
彼女の音色こそ、多くの人間に与えるべきものなのではないだろうかと……そう思ったから。
いつの間にか、室内に届くヴァイオリンの音色はかき消えていた。
我に返ってそれに気付き、瞬きをして先程の女生徒がいた場所を見つめれば、もうそこには誰の姿もない。
(……私は、ずっと、こうして)
(君の事を、見ていたんだな)
理事長室の窓の向こうで、何度追い払ってもめげずにヴァイオリンの音色を届けに来る存在を、初めは煩わしい、うっとおしいと思いながら。
生演奏を仕事のBGMにすることも音楽科というものがある学校ならではの醍醐味だろうと、いつしか理事長室の側で練習をする彼女を、追い払うことをやめた。
真摯に、楽しげにヴァイオリンを弾く彼女を。
こうして、この場所から眺めることを至福だと思っていた。
……それは、きっと。
これから先も、決して彼女には伝えることのない思い。
……何故、彼女を愛おしく想うようになったのか、その理由は今でも分からないけれど。
幸せそうな人間を見ていれば、自然と笑みが零れるように。
彼女が、本当に楽しそうにヴァイオリンを弾いていたから。
その彼女が抱く幸せに、確かに自分の心は、癒されていたのだ。
「……暁彦さん?」
こんこん、と遠慮がちなノックの音が響き、ほんの少し開いたドアから、ひょっこりと香穂子が顔を覗かせた。
窓の外でヴァイオリンを弾いていたあの頃より、綺麗に……そして、誰よりも吉羅に近くなった存在。
「ああ、入りたまえ」
「何か、久々だと緊張しますね。何年か前にはここに毎日来てたのに、不思議な感じ」
屈託なく笑って後ろ手にドアを締め、中に足を踏み入れた香穂子に、吉羅はゆっくりと歩み寄る。きょとんとして顔を上げた香穂子の唇に、身を屈めてそっとキスをする。
「……どうかしたんですか?」
唇を離すと、突然のキスに、わずかに頬を染めた香穂子が尋ねる。小さく笑って、吉羅は首を傾げた。
「婚約者殿にキスをしてはいけないか?」
「いけなくはないですけど」
いきなりで、びっくりします。と香穂子は正直に告げる。
そんな彼女を、吉羅は片手で抱き寄せる。
「暁彦さん?」
戸惑う香穂子を両腕の中に抱き締める。しばらく逡巡していた香穂子が、そっと吉羅の背中に細い両腕を回して、抱き返してきた。
「……君が、この学院にいた頃の事を思い出していた」
香穂子の髪に頬を埋め、静かに吉羅が語る。
「自分で思っていたより、もっと随分前から。……私は君のことを愛していたのかもしれないな……」
それは、彼女を愛している現在から振り返る過去だからなのかもしれない。
だが、吉羅の記憶に残る、彼女がこの学院にいた頃の姿は、いつも遠くで幸せそうにヴァイオリンを弾く彼女の姿。
……そんなふうに、ずっと。
吉羅は彼女を、眩しいものを見るように見ていた。
「……そうなら、嬉しい」
吉羅の胸に頬を押し当て、少しくぐもった声で香穂子は呟く。
理知的で冷徹なように見えるこの男の、弱く不器用な部分を知った日から、抱き続けていた恋情を。
彼も同じように、自分に抱き続けていてくれたと言うのなら。
身を起こし、至近距離で吉羅が香穂子の顔を覗き込む。
掌でその柔らかな頬を撫でると、見上げた香穂子が心得たように笑って、もう一度目を閉じた。
吐息混じりの口付けを、もう何の躊躇いもなく受け入れる存在を。
吉羅は、これからもずっと見守って生きていく。
誰よりも、何よりも。
彼女に一番近い位置で。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.31】
渡瀬が書く香穂子に野心というものがないので、音楽で身を立てるにしてもどの辺まで行くのかなあと考えるのですが。ある程度のバックアップはこのセレブがどうにかしてくれるでしょうが(笑)無理強いはしないだろうしな。有名なソリストになるよりは、どこかのオケとかに参加するような感じでしょうかね。
しかし、理事も一つ壁を越えると突き抜けるタイプですな(笑)


