……とりわけ、珍しいことではない。運転席でハンドルを握る男は、そもそも無駄話に花を咲かせるようなタイプではないから。
いつも、香穂子の方からの話題が尽きてしまえば、特に話すことはなくなって、あまり雑音が入り込まない高級車の中には沈黙が満ちるものだけれど。
」(何か……痛い?)
ぴりりと大気に混ざり込んだ緊張感。ちらりと吉羅の横顔を伺ってみるけれど、無表情を決め込んだ綺麗な横顔からは、何の感情も読み取れない。
「……あの」
ぽつりと香穂子が口を開く。
痛くて痛くて。この沈黙が耐えられない。
「吉羅さん、何か怒ってるんですか?」
その香穂子の指摘が、的外れでないことが分かったのは。
吉羅の横顔が、僅かに不愉快そうに歪められたから。
(……えーっと……)
昨日、食事でもしないかと誘ってくれた電話の時には、普通だったと思う。そもそも、何か香穂子に対して怒っているのであれば、食事の誘いなんてしてくれないだろうし。
香穂子は夕方まで大学の講議があったので、その電話以降、吉羅との接触はない。いつもどおり、大学の正門から少し離れた場所に停められた見慣れた外車に駆け寄って、乗り込んで。
……きっと、その時から吉羅は怒っていた。
何せ、いつもだったら大学の講議のことや、友達と遊んだこと。吉羅に逢えなかった数日間に香穂子に起こった出来事を、特に言葉を挟むことのない吉羅にいろいろ話して聞かせるのが日課なのに、車内に満ちた緊張感に圧倒されて、口を開くことすら憚れていたのだから。
「……あの」
香穂子は、懸命に口を開く。
吉羅が何に怒っているのかは分からないが、仕事上の不都合を香穂子に見せることはない人だから、この怒りは正当に香穂子に向けられるべきものだ。それならば、きちんと謝って、その怒りを解きたい。
……せっかく数日ぶりに、好きな人に逢えたのに。
「何か、怒っているのならちゃんと謝ります。だから怒ってる理由を教えて下さい」
何か香穂子に吉羅を怒らせる要因があるのなら、素直に謝る用意がある。だが、理由も分からないまま一方的に謝るのは何かが違う気がする。
そう思い、じっと吉羅の横顔を見つめていると、窓枠に頬杖をつき、片手でハンドルを握っていた吉羅がちらりと視線を香穂子に流す。徐に正面に視線を戻し、淡々と口を開いた。
「……君は、目を離すとすぐに、私ではない男と親しく話している」
「……はあ!?」
神妙に、吉羅の言葉を待っていた香穂子は、予想外の吉羅の指摘に素頓狂な声を上げた。
(……そういえば)
吉羅の車に乗り込む前。
正門をくぐる直前に、背後から声をかけられた。それは同じ講議を受講している男子学生で、たまたまいつも席が近くになるために、顔見知りになった人物だ。講議終了後、香穂子を追って来たその男子学生は、居眠りをしていて板書が間に合わなかったので、香穂子のノートを貸してくれと頼み込んで来たのだ。
どうせ、一週間に一度の講議。考査前でなければ特に必要になるノートでもない。次の講議の時に返してくれればいいからと、笑顔で彼にノートを手渡したっけ。
「……って! それだけなんですけど!」
そういう一部始終を吉羅に見られているとは思わなかったが、それ以上に、たったそれだけのことでそんな誤解をされるとは思わなかった。キャンパス内では当たり前のようにそこかしこで見られる光景ではないか。
「……全く、君は自覚が足りない」
堰を切ったように、吉羅が大仰に溜息を尽きながら、吐き捨てる。
鷹揚なのは彼女の美徳だが、あまりにもおおらかすぎる。
……綺麗に、大人びて。何故か目が素通り出来ない、抗えない魅力を自分が放っていることを。
香穂子は全く、気が付いていないから。
「無防備もほどほどにしたまえ。君がただの友達とのやりとりのつもりでも、相手に下心がないとは言い切れないのだからね」
遠目に見ていた吉羅にすら。
香穂子に笑顔でノートを手渡されて、嬉しそうに頬を染めて笑ったあの男子学生が、どんな気持ちで香穂子を見ているのか。
同じ想いを抱く吉羅には、すぐに分かったと言うのに。
「……えっと」
……吉羅の指摘に驚きはしたものの。
次にやってくるのは、じわりと滲むような幸福と、喜び。
「つまりそれって、……妬いてるって、こと?」
おそるおそる尋ねた香穂子に、一つ、大きな瞬きをして。
それから吉羅は、頬杖をついたまま香穂子を見つめる。小さく笑って、きっぱりと言った。
「そうだよ」
「……吉羅さん」
「君に想いを告げる際に、きちんと言ったはずだ。……私は君が考えるほど、余裕のある大人ではないとね」
私のものが、自由に他の男と笑って話しているのを許すほど、心が広くはないのでね。
「……我侭ですね」
「承知の上だろう?」
「吉羅さんは子どもで、結構独占欲が強いんだ」
「何を今更」
分かっていただろう、と吉羅が苦笑する。
そうですね、と香穂子も笑う。
大人の男の人だと思っていた。
だけど、それだけの印象なら、香穂子は彼を好きにはならなかっただろう。
本当は、脆い人で。
辛い出来事に心を縛られて、自分の幸福すら見失っているような、不器用な人だから。
香穂子は吉羅を好きになった。
……だから、こんな子どもっぽい独占欲を。
可愛いと想ってしまった時点で。
もう初めから、この勝負は香穂子の負けなのだ。
「私が好きなのは、吉羅さんです」
「……日野くん」
「吉羅さんだけです。それだけは、間違いないから。……変わらないから」
信じて下さい、と香穂子は笑う。
誰と話していても、笑っていても。
愛おしむのは、きっと目の前の吉羅暁彦という男性、たった一人だから。
「……さて、どうしようかな」
「意地っ張りだなあ、もう」
はぐらかすような吉羅の答えに、拗ねた香穂子が溜息をつく。
「君が証明してくれたら。……信じられるかもしれない」
「証明?」
何を?と香穂子が首を傾げる。
甘く笑う吉羅が、斜めに香穂子を見下ろした。
「無論、君が私を愛しているということをだよ。……香穂子」
その言葉の奥に隠された意味に。
伸ばされた吉羅の指先が、香穂子の手を撫でる感触に。
何だか体温が、上昇する心持ち。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.26】
今回の理事創作の中で前の方に書いたものなんですが、これを書いたことで吹っ切れたと言うか、「あー、理事ってこう書けばいいんだ」というのが分かったと言うか(笑)
とりあえず、この人って私が書く中で一番腹黒くて、一番子どもっぽい気がします(笑)大人気ない……大人気ないわ……。
でも、その突き抜けた感が伝わっているのか、内輪には評判よかったですね、理事創作。


