もう抑えられない

吉羅→←日野

 ほんの少しでも目を離せば、面白いくらいに彼女は変わっていく。
 急激に「少女」から「女性」へと成長する彼女を、どんな力を持ってしても留めることが出来ない。
 だから、余計に彼女との立ち位置を測りかねる。……少し前までは、余裕を持って、彼女が自分に近付いて来るのを待っていられたのに。
 彼女の成長は、吉羅の予想以上に、早いものだったから。




「……躊躇う意味が分からん」
 馴染んだバーのカウンターで、旧知の先輩は顔をしかめて半分以上中身の減ったグラスを揺らし、氷を鳴らす。生真面目に首を傾げ、吉羅は金澤の横顔を伺った。
「何故ですか。……彼女は高校を卒業したばかり。まだまだ幼いですよ。仮にも教職に携わる者としては、軽はずみに彼女の想いを受け入れるわけにはいかない」
「そう思ってるのは吉羅、お前だけだろ」
 正直、金澤はこの傍らで強いアルコールを飲み干す男が、言葉ほど余裕を持っているとは思っていない。本人にはその自覚がないらしいが、吉羅は一回り近く年齢が下の金澤のかつての教え子に、相当の愛情を抱いている。
 ……素直な気質ではないから分かりにくいが、基本は真面目な男だから、金澤のように付き合いが長く、その複雑怪奇な感情の歪みを解ける人間には呆れるほど分かりやすい。
「未成年とは言え、18を超えた大学生なら、充分に責任が取れる大人なんじゃないか。そもそも日野は、お前と同じで、超が付くほど真面目なやつだし。……まあ、日野の場合、お前ほどひねくれちゃいないがなあ」
 恋愛に溺れて、常識を蔑ろにするような人間ではない。それは、学内コンクールから始まり、アンサンブルコンサート、オーケストラのコンミスと、責任を否応なく負わなければならない立場に追いやられ、それでもその重責を投げ出すことをしなかった彼女を見て来た金澤にはあまりにも明白なことだった。
「……ま、所詮はお前さん達の色恋沙汰だ。余計な口を挟む気はないが」
 グラスの結露に濡れ、磨き上げられたテーブルに張り付いた伝票を剥ぎ取り、金澤は席を立った。理事長職に就いている後輩に施してやるいわれはないのだが、本人にもよく分かっていない情けない姿を見ることが出来たのはなかなかに面白かったので、酒の一杯くらいは奢ってやってもいい。
「あれくらいの年頃の女は、すぐに化けるぞ。……余裕かましてのんびり構えてたら、鳶に油揚げ、なんて事態にならないようにな」
 ひらりと伝票を振り、金澤は椅子の背に引っ掛けていたジャケットを取り上げて、席を立つ。「金澤さん」と心許なげな吉羅の声が背中を追ったが、頓着することなく、金澤は店を後にした。
「……アホらしいな。若人の青臭い初恋話じゃあるまいし」
 暗がりの歩道で、苦笑しながら金澤は溜息をつく。
 今日、ここに金澤を誘い出した時の、電話口の切羽詰まった吉羅の声を思い出した。

(……金澤さん)
(私は、もう抑えが効かないかもしれません)

 勝手にやってろ、と一人ごちて、金澤は帰路につくべく、人通りの絶えた歩道を歩き出した。


 鳶に油揚げ、という事態。
 金澤が去り際に残した一言に、何故か心が揺れた。
 吉羅が余裕を持って、彼女の成長を待っていられたのは、彼女の心が自分にあるのだと、分かっていたからだ。
 よくも悪くも真直ぐな彼女は、吉羅へと向ける想いもまた、真直ぐだった。
 想われている。その確信があったからこそ、曖昧に彼女の追求をかわし続けていられた。
(そうすれば、君はまた真直ぐに私に向かって来てくれるだろう)
 駆引きも小細工も出来ない彼女は、ただ正面から、吉羅への想いを見せてくれる。それは分かり切っていたことだから、吉羅はその素直さに甘えていられた。
 吉羅が特に何もしなくても、彼女は吉羅を好きでいてくれたから。
 いつでも簡単に、手に入れられる。
 だからこそ、吉羅は彼女の前で、余裕のある大人でいられた。
 翻弄される彼女の反応を、楽しんでいられた。

 だが、香穂子は変わった。
 ほんの数カ月で、蛹が蝶になるように。
 蕾が花開くように。

 彼女の些細な仕草に、女性を感じるたびに。
 他愛無い吉羅との会話に、これまでになかった余裕と、ほんの少しの疲れを感じるたびに。
 いつか、彼女は自分という存在を手に入れることを、諦めてしまうのではないかと不安を感じ始めた。

(……もう、いいんです)
(吉羅さんにとって、私がまだまだ子どもだってこと、分かってますから)

 吉羅に上手くはぐらかされるたびに、そう呟いて香穂子は諦めたように笑う。
 そのたびに、吉羅の中にこっそりと降り積もる、不安と焦り。
 そうして、気付くのだ。
 自分の中の、醜い幼さに。

(君が思うほど、私は大人ではない)
(だが、君より大人である私を君が想っていることを知っているから、今更それをなかったことには出来ない)

 降り積もる不安と焦りに呼応するように。
 育っていく、彼女への想い。
 それは、いつしか吉羅の手には負えなくなって、抑えられずに暴走を始め。
 そして、彼女には幻滅される。
 ……自分は本当は、何よりもそれを怖がっている。

 それでも、もう吉羅には分かっているのだ。
 抑えている想いが決壊する日が、そう遠くはないことも。


「吉羅さん?」
 こつこつ、と助手席側の窓を叩く音。はっと我に返って顔をあげると、私服姿の香穂子が立っていた。
 ……もう彼女が、吉羅が理事長を務める学院を去って数カ月が経つと言うのに、いまだ吉羅は目の前の香穂子の姿に違和感を抱く。
「ああ、……待たせたね。乗りなさい」
「待たせたのは、私の方ですよ」
 苦笑して、香穂子が助手席に腰をおろす。シートベルトをきちんとはめる、ヴァイオリニストらしく手入れの行き届いた爪先は、淡い桜色に染められている。派手なネイルアートは興味ないですけど、コーティングの意味も兼ねて、これくらいは、と照れたように彼女が笑ったのは、そう遠くはない過去。
 そうして、彼女は綺麗になることを覚えていく。
 つまらないプライドに足掻く吉羅を置いて。
 吉羅の知らないところで、手の届かない場所で、簡単に大人になる。
 ……そんなふうに変わっていく彼女を、思い通りにはならないと切り捨てられれば楽になるのに。
 本質は、密かに愛した彼女のままだから。
 不安になって、焦り始めて。
 抑えられないほどに、想いは募って。

(躊躇う意味がわからん)
 不意に、金澤の声が脳裏に響く。
(……そう、本当は私にも分からない)
 もう、彼女はきっと吉羅を受け止めることが出来るだろう。それは、吉羅が想像していたよりもずっと早い彼女の成長。
 だからこそ、吉羅は戸惑っているのだ。願っていた時が、あまりにも早く訪れてしまった所為で。
 ……だが、躊躇ってばかりいては。
 吉羅は手に入れられるはずのものを、本当に失ってしまうのかもしれない。

 意を決して、腕を伸ばして。
 吉羅は彼女の細い腕を掴まえてみる。
 香穂子は少し驚いたような表情で、吉羅を見つめた。吉羅さん?と訝しげに尋ねる声が狭い車内に響く。
 引き寄せて、そっと抱き締める。
 華奢な身体、細い四肢。
 それでも香りは甘く、触れた場所は柔らかい。
 確かに彼女は女性なのだ。
 ……幾ら、吉羅の頭の中では、いつまでも清らかな変わらない少女のように思えていたとしても。
「き、き、き、……吉羅さん!?」
 慌てたような、上擦った声。小さく吉羅は笑う。
 あんなに触れることを躊躇った存在は、吉羅の気持ち一つで容易く腕の中に捉えられた。
「……予定では、もう少し君の……ヴァイオリニストとしての成長と、心の成長とを待つつもりだったんだが」
 事情が変わった、と吉羅は呟く。
 このまま、安いプライドを振りかざして彼女を蔑ろにしていたら。
 金澤の言葉通り、どこの馬の骨にかっ攫われるか知れやしない。
「……私のものになってみるかね?」
 至近距離で香穂子の顔を覗き込み、吉羅は甘く笑う。
「ただし、おそらく私は君が思うほどに大人ではなく、こうして我慢も効かない我侭な人間であるから、君の気苦労は絶えないと思うがね」
「……気苦労は、もう随分前からかけられっぱなしですから、今更どうこうは言いませんけど!」
 強気で言い返し、香穂子は不意に語調を弱める。
 否応なく浮かんで来る涙に目を潤ませて、真直ぐに吉羅の目を見つめ返した。
「……本当に?」
 震える指先が、香穂子を捕らえる吉羅の腕に触れる。
 戸惑いながら、それでも。
 香穂子の細い腕が、吉羅の身体を抱き返す。
「本当に、私を吉羅さんのものにしてくれるの……?」

 は、と息を付くように吉羅が笑った。
 こんな部分まで、きちんと成長しているとは思わなかった。

「……どこでそんな甘え方を覚えて来たのやら」
「吉羅さ」
 呼びかけた声は、甘く吐息にかき消される。
 優しく、深く触れる口付けに、香穂子は一瞬目を見開いて。
 そして、ゆっくりと目を閉じる。
 伏せた瞼に押し出された淡い涙が、そっと香穂子の頬の曲線を辿った。

 抑え切れずにはみ出して。
 香穂子に曝け出さずにはいられなくなった吉羅の想いは。

 香穂子の想像以上に、ひどく唇に甘かった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.26】

あー、所詮ヘタレか(ええっ)
余裕のない、虚構の大人、という印象で理事を書くと、すらすら書けるからアラ不思議(笑)おそらく身内の理事好きに一番評判が良かった話です(笑)
渡瀬自身もなんだかかなりノって書いてた話のような。金やんとのやりとりが楽しかった。金やんから見ると、どんなに大人ぶっていても、ただのからかい甲斐のある後輩なんですね(笑)

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