手を繋いでいいですか?

吉羅×日野

 一緒に歩いていると、自然と吉羅の方が香穂子の数歩先を進むことになる。
 それなりに歩調は気遣ってくれている気はするのだが、合わせる、という程の妥協もしてくれない人だ。だから香穂子は、いつもほんの少しだけ早足で吉羅を追い掛ける。元々二人の間に存在する立場上の距離とか、年齢の距離とか。自分の力ではどうしようもないこと以外で、吉羅との距離が広がることがないように。
 吉羅から「君の糧になるように」と誘われたコンサートは、彼の言葉通り、格調高く、演奏のレベルも高い。当然ながらその聴衆は学生ばかりとは言えなくて、ロビーは見るからに上流階級といった風情の、大勢の大人達で溢れていた。
 そんな人込みの中を、吉羅は迷わない足取りで颯爽と縫って歩く。振り返らない背中を見つめながら、香穂子は必死でそんな吉羅の後を追った。
 これ以上置いていかれたくない、距離を開かれたくないという一心で付いていくが、一方的に追い掛けるだけの自分自身が、情けなくて、悔しくて。
 ……振り返って、こちらに譲歩して欲しいわけじゃない。吉羅に、香穂子を甘やかす何かを期待するわけじゃない。無理をしなければ追いつけない自分の立ち位置に、時折絶望に似たような思いを抱くだけだ。
「……日野くん?」
 ふと、吉羅が足を止め、香穂子の名を呼びながら突然振り返った。
 反射的に同じように足を止め、ぱち、と大きく瞬きをして吉羅を見上げる香穂子に、吉羅は少しだけ居心地が悪そうに溜息を付いた。
「ああ、すまないね。この人込みだろう。君があまりに大人しいから、はぐれてしまったのではないかと思ってね」
「……ごめんなさい」
 追い付くのに必死で。と続く言葉を香穂子は呑み込んだ。全ての力を集中しなければ吉羅に追いつけないのは香穂子の勝手な事情で、力不足であるが故だ。自分で認めてしまうのが嫌で呑み込んだ気持ちだが、改めて考えてみれば、自分が謝るような場面ではなかったことに、数秒遅れてから気付く。
「……責めたのではないよ」
 呟いた吉羅の言葉は、いつも通り淡々としているのだけれど、どこか優しく香穂子の鼓膜を揺らす。勝手なこちらの意地だったのに、逆に気を使わせてしまったような気がして、香穂子は恐る恐る上目遣いに吉羅を見上げた。
 すると、視線がぶつかる。
 穏やかで柔らかな。
 珍しい雰囲気を持つ、吉羅の視線。
「……さて」
 腕組みをして、周りの人の喧噪を眺めやる吉羅が、何かを考え込むように自分の顎の付近に指先を当てる。香穂子と視線を合わせないようにする吉羅が、ぽつりと意外な言葉を呟いた。
「君が迷子にならないように、こちらから一つ提案したいことがあるのだが」
「……は?」
 それはやっぱり私のせいですか?と言いたくなったが、そういうことを言っても無駄なのだということは、これまでの吉羅との付き合いで承知している。下手に抗議をすることなく、香穂子はとにかくその吉羅の提案を聞いてみることにした。
「手を繋いでみる、というのはどうだろう?」
「……はい?」
 出て来たのは、増々意外な言葉だった。香穂子は思わずそっぽを向いている吉羅の横顔を凝視する。
 ……ほんの少し、彼の頬が染まったような気がしたのは、少し薄暗いオレンジの照明が為せる技だろうか。
「正直、私の歩調に追いつけない君が、そのうちそんなことを言い出すんじゃないかと期待していたんだが」
「人任せ過ぎますよ、吉羅さん……」
 がっくりと肩を落として香穂子が項垂れる。そうして自分の靴の爪先を見つめる香穂子に、頭上から降って来る小さな吉羅の声。
「相手の迷惑も顧みず、自分の願うことを正直に曝け出すのは、君の専売特許だと思っていたからね」
 そして、その素直さが心地よくなってしまった頃から。
 本当の意味で、彼女の願いを拒絶することは出来なくなってしまったのだと、吉羅は知っている。
 自分の爪先を見つめながら、一瞬目を見開いた香穂子は、一つ息を付いて「それもそうですね」と、呆れたように小さく笑う。

 以前、教師の金澤に言われたことがある。
 自分と吉羅は、どこか似ていると。
 ……そうなのかもしれない。言われた時にはよく分からなかったけど。
 相手にいつも遠慮して。言いたいことも言えないで。
 嫌われたり、呆れられたりしたくないって、本心を丁寧にオブラートに包んで、隠して。
 だから、本当に伝えなければならない願いは、いつだって香穂子の方から、吉羅には曝け出して来た。はっきりと伝えなければ、『察して欲しい』という願いを持たない吉羅には、香穂子の『察して欲しい』という想いも、知ってはもらえないことに、気付いたから。
 思ったことの十分の一も伝えていないけれど、それでも何かを願うのは、いつも香穂子の方からだった。
 でも、金澤の言う通り、本当に自分と吉羅が似ているのならば。
 本当は、もう少し相手に甘えてもいいのだ。
 迷惑なように思える些細な我侭だって、曝け出していい。
 自分からそういう甘えを告げることはない吉羅は、香穂子の方からの『それ』を受け止める準備は、きっと出来ている。
 香穂子だって、いつか吉羅が甘えてくれるなら、それにちゃんと応えられるように。
 いつだって心の準備を整えているのだから。

「吉羅さん」
 身を起こして、顔を上げて。
 香穂子は思い切って、告げてみる。
 些細な我侭。何の糧にもならない願い。
 それでも、もしかしたら吉羅の方も。
 はぐれそうな香穂子を気にかけながら、言われることを待ち望んでいたのかもしれない。
 小さな、小さな願い。

「……手を繋いでも、いいですか?」

 一瞬目を丸くした吉羅は、次に微かな笑顔を零して。
 そっと香穂子に掌を差し出してくれる。
 恐る恐る、その掌を香穂子の小さな掌で握り締めてみると。
 思いがけず、握り返して来る強い力。

「……柄ではないかな」
 少し困ったような優しい微笑みは、あまり見たことがない吉羅の表情。
 そんな、ぽつんと落とすような笑顔が、嬉しくて。
 香穂子は笑って、首を横に振った。

 そうして、手を繋いだまま、また二人は人込みの中を歩き出す。
 一人で吉羅を追いかけていた時には不安で仕方がなかった、自分が場違いのように思える空間が、不思議と怖くなかった。

 相変わらず、吉羅の歩調は変わることなく、マイペースで、時折香穂子は付いて行けずに、足がもつれそうになるのだけれど。
 それでも、吉羅がこの繋いだ手を無遠慮に離したりはしないだろうと。
 心のどこかで、信じていられたから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.11】

今回の理事創作の中で最初に書いたものです。まだ手探り感が満載です(笑)
この人って、人込みの中ではぐれそうになっても、絶対待っててくれなそうだなーと思います(笑)
しかも、手を繋ぎたくても絶対自分から言い出したり、したりはしないような。相手の出方を待ってる気がする(笑)

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