一瞬どうしようかと立ち止まった香穂子は、そろそろとテーブルの上に二つのカップを乗せる。この人、ソファはベッドの別名だなんて思ってるんじゃないのかな?と眉根を寄せながら、ぺたりと絨毯の上に直に座り込んだ。
せっかく香穂子がいれた吉羅のコーヒーが冷めてしまうのは残念だが、何よりも、多忙な恋人には少しでも多く休息を取って欲しい。これがきちんとベッドの上でなされていれば言うことはないのだが、香穂子の力でベッドまで運べるわけでもなし、この辺りで妥協するしかない。
そう思って、一口熱い紅茶を飲み込んだ香穂子は、ふと、ブランケットでもかけてあげた方が良くないか?と自問自答する。幾ら室内の温度が最適とはいえ、警戒心のない身体にエアコンの風は優しくないだろうし。
ベッドルームの方へ何か羽織らせるものがないか探しに行こうと、立ち上がりかけた香穂子の心配は、最初の『ソファで寝る』ということの懸念も含めて、全てが杞憂に終わってしまう。
コーヒーの香りに誘われたのか、はたまた香穂子の立てる小さな物音が気になったのか、吉羅はあっさりと目を覚まし、ゆっくりとその場で身を起こす。慌てて元の位置に戻った香穂子が、軽く瞬く吉羅の様子を伺うように、そっとその顔を覗き込んだ。
「……ああ、すまないね」
もう一度瞬きをして、吉羅の視線が目の前の香穂子の姿を捉える。
意識がなくなっていたのはほんの数分。そのうちにきちんと自分の目の前に準備されているコーヒーカップを見つめ、吉羅が呟いた。
わずかに顔をしかめて、手元に引き寄せた香穂子が入れたコーヒーを啜るが、いつもこんな表情なので、別段不味いわけではないのだろう。
「あの……疲れてるならちゃんとベッドで寝た方が。ていうか、私が邪魔してるなら、もう帰りますけど」
恐る恐る香穂子が尋ねると、ちらりと香穂子に視線を向けた吉羅は、かつんと音を立ててカップをテーブルの上に戻し、香穂子が欲しかった解答とは全く違うことを口にする。
「君は、うたた寝している人間の顔を覗き込むのが趣味なのかね?」
「はあ?」
香穂子が首を傾げる。
吉羅が楽しそうに笑いながら、テーブルに頬杖を付く。
「思い返せば、初めて逢った時も、君は私が寝てる姿を覗き込んでいただろう?」
それは、少しだけ昔へと遡る記憶。
楽しくも優しくもなかった、二人の出会い。
「普通、誰もいないはずの部屋で寝てる人がいたら、どうしたのかな~って心配して見るでしょう。……っていうか、あのねえ、暁彦さん。そもそも、そこ、私達の初めての出逢いじゃないですから!」
「おや、そうだったかね?」
「そうですよ。初めての出逢いは……私が遠目に見かけただけですけど、教会で。ものすごく立派なカサブランカの花束抱えてるのがスーツ姿の男の人だったから、印象的で覚えてたんです。その後は……確か学校で。ぶつかって……そうそう、あの時暁彦さん、ぶつかった私よりヴァイオリンの心配したんですよ! 今思い出したらムカついて来た!」
自分の言葉を糸口にして、香穂子は吉羅との想い出を紐解いていく。香穂子が並べる言葉を聴きながら、吉羅は微笑んで彼女がいれてくれたコーヒーを口に運ぶ。
「人はぶつかって怪我をしたくらいなら簡単に治るが、楽器はそうもいかないからね」
「暁彦さん、あの時もそう言いました! 正論ですけど、初対面の、通りすがりの人に言うことじゃないです!」
その時の怒りを正確に思い出したのか、むうと膨れる香穂子がばんばんとテーブルを掌で叩く。
「通りすがりで、その後は二度と会うことはないと思うから言えるのだよ。後腐れはない方がいいからね」
吉羅の静かな言葉に虚を突かれた香穂子が、目を丸くして口を噤む。
そんな彼女の表情を見つめ、吉羅は小さく笑って目を伏せた。
「……しかし、再び出逢ってしまったのだから。それも、運命的だと言えるのかもしれない……」
運命論を語る気はないが、彼女との出逢いは今になって思い返せば、随分と運命的だったと思う。
たまたま、彼女がファータの愛情を一身に受ける存在で。
たまたま、吉羅がファータの恩恵を一身に受ける存在で。
だからこそ、あの時の出会いが、その場限りの出会いでは終わらなかった。深く関わりあううちに、ファータに愛される彼女に、吉羅自身もまた心惹かれてしまうのは、ある意味必然であったのかもしれない。
全ては、あの日、あの時。
彼女に出逢ってしまったその時に。
吉羅が進んでいくべき道は、もう既に、示されていたように思える。
「おかげで、どうやら私は、君との昔の約束をちゃんと守ることが出来そうだ」
テーブルの上を辿って、そこにあった香穂子の手に、吉羅の指先がそっと触れる。
約束……と呟く香穂子が、やがて何かを心得たように、にっこりと笑って吉羅の手を取った。
「……暁彦さんは、幸せになれましたか?」
吉羅という人物を知って、深く関わっていくうちに、香穂子の心に芽生えた願い。
淡々と目の前に積まれた仕事をこなし、本当は好きだったはずの、大切なものを奪った音楽から目を反らして生きている吉羅に。
……どうか幸せになって欲しいと。
香穂子が、立派にコンミスとしての役割を果たしたら。
叶えて欲しいと祈った、小さな願い。
簡単ではなかったけれど。
一朝一夕で叶えられるものではなかったけれど。
それでも。
「……ああ、幸せだよ。……君が、私の側にいてくれるからね」
自分を愛してくれる存在を、吉羅もまた、同じように愛することが出来たから。
彼女が……彼女との出逢いがあったからこそ、この手に掴めた幸せ。
手を繋ぎ、肩を寄せあって、同じ部屋で、同じ穏やかな時間を過ごす。
その穏やかさを分かち合える存在があるからこそ、実感出来る幸せ。
それは、きっと。
出逢ってしまったその時に。
……そして、その巡り会えた存在を、愛することが出来た時に。
吉羅に与えられた運命の中で、必然的に歩むべき一つの道だったのだろう。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.1】
部屋で気を抜く理事と、そこに当たり前のように存在している香穂子が書きたかったのです。
基本、渡瀬が書く創作は、きちんと時系列を繋げて書いているものが多いため、この話の過去もどこかに創作があります。はっきり言えば「9恋」に入ってる(笑)


