ドレス姿の香穂子には苛酷とも言える状況だが、先ほど勧められて飲んだアルコールの所為なのか、身体が火照っているようで、特に寒さは感じない。
暗がりの中から背後の明るいパーティ会場を眺め、つくづくああいう華やかな場に馴染まない自分自身に、繰り返し溜息をついた。
ヴァイオリニスト、と世間一般に認識されるほどに演奏家としての活動の幅が広がって来ると、自然とこういう場に顔を出す機会も増えて来る。それでも、新進気鋭の若きヴァイオリニストを品定めするような好奇の視線に晒されることは、どんなに経験を積んだとしても好きになれるものじゃない。
(……嫌なもの見ちゃうし……)
口を尖らせて自分の足元を見つめ、子どもっぽい我侭だと自嘲して、香穂子はふるふると首を横に振る。もう一度明るい室内に視線を向けてみるが、人が多くて、目当ての人物を見つけることは出来そうになかった。
今は、香穂子の後見人になってくれている、母校の理事長を務める男性。
後見人である前に、彼は香穂子の年の離れた恋人でもある。
学院を背負う、責任ある立場の彼は、香穂子の前でこそ不遜な態度であるが、仕事の関係者に対しては驚くほど人当たりがいい。しかも決して媚びへつらう態度なのではなく、あくまで対等に、それでいて相手に不要な不快感を与えることのない人付き合いをする。
そもそも、香穂子の彼に対しての印象は、最初から傲慢な人でしかなかったから、親しく付き合うようになって、その仕事場での印象の違いに、開いた口が塞がらなかったくらいだ。
もっとも、その裏側ではそういう仕事相手に対してそれなりの悪口雑言を浴びせているのは、香穂子しか知り得ない事実なのだけれど。
……そんな、よくも悪くも大人な彼が、自分のような子どもっぽい女を、何故好きになってくれたのか、今でも香穂子は分からない。彼を追いかけている間は、とにかく自分の気持ちを受け止めてもらうことに必死だったから気付かなかったけれど、届いたなら届いたで、その後の不安は止め処なく湧いてしまうものなのだと否応なく教えられた気がする。
……彼を通して依頼された、このパーティでの演奏を引き受けて。
低いステージの上で、数曲を披露した。その何気なく向けた視線の先で。
彼と共に談笑する、数人の女性。綺麗に化粧をして、大人っぽい露出のきついドレスで。甘えるような笑顔を向けて、丁寧に赤いマニキュアが塗られた細い指先で、彼の腕に触れていた。
似合うなあ、と演奏に没頭する脳の片隅で考えた。
本来、彼の隣に立つべきなのは、ああいう雰囲気の女性なのだろう。
……香穂子は香穂子で。
背伸びをしても、努力をしても、あんなふうに当たり前のように彼の隣に立てるような雰囲気を持つ女性に、多分一生かかってもなれはしない。
香穂子が自分自身というものを捨て切れない以上、みっともなくやきもちを焼いて、だけどそんなふうに彼に相応しくない自分に落ち込んで、それでもやっぱり、誰かが勝手に彼に触れるのは嫌だと駄々をこねたい幼さに、何よりも自分自身こそが辟易してしまうのだ。
香穂子はバルコニーの手摺に両腕を投げ出して、伸ばした両手を目前に掲げてみる。
ヴァイオリンを弾くために短く切った丸い形をした爪の先。少しだけ光沢が出るように淡い色のコーティングがしてあるけれど。
あの、赤いマニキュアは、きっと似合わない。
……あの、色っぽさを醸し出す大人の女性には、きっと、どうしたって適わない。
そう考えたら、何だか急に、自分の存在がとても惨めに思えてしまった。
(……帰ろうかな)
頼まれていた演奏はもう終わった。
車でなければ帰れないというほどの場所ではないし、高いヒールで駅まで歩くのはちょっと辛い気もするけど、決して不可能なことじゃない。
何よりも香穂子は、もう自分の知らない笑顔で自分ではない誰かを見る彼を、これ以上見ていられない。
(うん、そうしよう)
一度考え付いたら、香穂子の決断は早かった。まだ会場内のどこかにいる彼に、暇の意を告げようと、会場内に足を踏み出しかけた時、香穂子が開くより先に、窓が開いた。
顔をあげると、スーツ姿の来賓者が香穂子の姿を認め、目を細めて笑った。香穂子も笑みを返しながら、会釈をして、その側をすり抜けようとする。……すると。
「日野さん」
すれ違いざまに、香穂子の腕をその男が掴む。驚いて振り返ると、意外な力でその掴んだ腕を引っ張られ、香穂子はまた寒いバルコニーに戻る羽目になった。
「あの……?」
「先程の演奏、堪能させていただきました。まだお若いのに、感情豊かな艶のある演奏をされる」
「はい、……あの。ありがとうございます……」
香穂子はよく分からないまま、それでも自分の演奏が誉められたことに対して、礼を述べる。
にっこりと笑うその男性が、腕を掴んでいた手を離す。ほっとしたのも束の間、その指先が香穂子の腕を滑るようにして手の甲までなぞり、香穂子は思わず背筋に寒気が走るのを感じた。
「よろしければ、この後どこかで一杯いかがですか? 貴女のヴァイオリンの話をもっと詳しく聞かせていただきたい」
「……っ、あのっ」
この場合の一杯は、香穂子の常識と照らし合わせて出て来る、手頃な喫茶店でコーヒーでも一杯、というノリではないのだろう。上手に断りたいのに、言葉が喉に張り付いて出て来ない。将来、様々な表舞台に出ていくことになった時に困らないように、と彼が伝授してくれたいろいろな作法の中に、こういうときの対処法は存在しなかった。
どうしよう、と香穂子が内心、冷や汗を浮かべたその時。
ばん、と勢い良く窓が開く。勢いに長い髪を揺らされて、香穂子と男はきょとんとしてそちらの方へ顔を向ける。そこに立ち尽くす男性の姿を見て、香穂子は思わず泣きそうになった。
「あ、きひこさ……」
「連れが失礼した」
一言、味も素っ気もない言葉を男に残し、吉羅は香穂子の腕を掴んで会場内に引きずり込むと、躊躇なく開けた時の勢いのままに、今度は軋むほどの強さで窓を閉めた。
「あ、あの、暁彦さ……?」
戸惑う香穂子に有無を言わせず、吉羅はずるずると香穂子を引っ立てるようにして会場を後にする。ややして取り残された男が、窓の外から何かの恨み言を大声で叫んでいた。
フロントに預けられていた香穂子のコートとヴァイオリンケースを受け取った吉羅は、無言でそれを香穂子に差し出すと、自分のコートを肩に引っ掛け、また香穂子の腕を掴んで駐車場の方へと歩き出す。あの、ちょっと、と香穂子が制止を試みるが、全く聞き入れてくれそうにはなかった。
「……!」
香穂子の片手からヴァイオリンケースだけを奪い取り、開けた助手席のドアから吉羅は押し倒すようにして香穂子を座らせる。勢い良く尻餅をついて、香穂子が反射的に息を呑んだ。
そんな香穂子に構わずドアを閉めて、トランクの中に丁寧にヴァイオリンケースをしまい込むと、今度は自分が、運転席に乗り込んだ。
しばしの重い沈黙。
ハンドルに両手をかけた吉羅がはあ、と大きな溜息をついた。
「……全く!あんな席で、慣れない君が勝手な行動をするんじゃない!」
容赦なく叱り飛ばす吉羅に、香穂子は思わず目を瞑って身を竦める。次の瞬間に涙が浮かんできたのは、怒られたのが怖かったからじゃない。
……安心したからだ。
演奏が素晴らしければ素晴らしいほど、演奏後に彼女を取り囲む人間が多くなるのは分かっていたし、それをあしらう器用さを彼女が持っていないことも、吉羅は最初から分かっていた。それもあって、香穂子には演奏後、ステージから降りたらすぐに自分の元へ来るように言っておいたのだが、彼女はその約束を守らなかった。人込みに紛れて見えなくなった彼女を探して、会場中を走り回っていたら、バルコニーの外にいた彼女とあの男とを見つけたのだ。
「ごめんなさい……でも、演奏後に、暁彦さんの側、……行けなくて」
彼に相応しい、大人の雰囲気を持つ女性達。彼女たちに取り囲まれている吉羅の側には、どうしても行けなかった。……彼女達の側に立つと、自分の幼さが際立ってしまうようで。
彼女たちに綺麗な笑顔を向ける吉羅に、『私以外の誰も見ないで』と……子どもじみた我侭をぶつけてしまいそうで。
だが、結果としてそれは、吉羅にいらぬ心配と迷惑をかける羽目になった。どう転んでも大人っぽくは振る舞えない自分が情けなくて、もっと涙が溢れそうになった。
「……君に泣かれると、どうしていいのか分からない」
黙ったまま香穂子を見つめていた吉羅が、少し困ったようにそう言った。ごめんなさい、と再度謝ろうとした香穂子の身体を、柔らかな温もりが包み込む。
ぱちぱち、と瞬きをすると、溜まった涙が落ちていく。自分を抱き締めてくれる吉羅の背に、そろそろと腕を回して、香穂子はぎゅっと目を閉じた。
「君は、私を振り回す天才だな」
「……ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。……結局のところ、私が振り回されたくて、振り回されているのだからね」
わずかに身を起こした香穂子が、不思議そうに吉羅の顔を至近距離で覗き込む。そんな彼女に小さく笑って、吉羅はそっと彼女に頬を寄せた。
「何事もなくて、幸いだ」
耳元でそっと囁き、吉羅は彼女に口付ける。
子どもっぽい言動。
見当違いの気遣い。
他愛無い我侭や、予測の付かない行動。
それに振り回される自分自身を、吉羅は心のどこかで楽しんでいる。
そんな愚かな彼女の全てを愛おしく想うのだから。
どうしたって吉羅は、彼女には適わないのだ。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.31】
普通に香穂子に適わない理事を書きたかったのですが、それをすんなり認めてくれそうにはなかったので、ちょっと回りくどい書き方をしました。
香穂子の方がより距離感を感じてはいるんでしょうけど、実際はその裏で理事の方が振り回されてたらいいなあ~v


