ぶらぶらと宙に浮いた両足を揺らす。しっかりと防寒した上半身とは打って変わって、厚めのタイツを履いているだけのローファーに押し込んだ爪先は冷たかった。靴用のカイロを持ってくればよかったなと香穂子は後悔した。
そうして、何気ない冬の放課後を過ごす香穂子の背後に、乾いた靴音が近付いて来る。あれ?と思ったところで、更に上の段差から、冷たい声が降り落ちてきた。
「……何をしている?」
聴き覚えのある声に、香穂子は後ろを振り返った。視線の先には、仁王立ちで理事長の吉羅暁彦が立っていた。
こんなに寒いのに、いつものかっちりとしたスーツ姿で、特に防寒している様子はない。
この人は、夏場でも同じような格好で平気そうにしているんじゃないかと香穂子は訝しむ。
「ええと」
いつも、こういうシチュエーションで彼と会う時には、大抵譜読みをしているか、ヴァイオリンの練習をしているかのどちらかだ。だが、今日の香穂子はそのどちらでもない。練習室の予約が中途半端な時間で終わり、他で練習を続ける時間の余裕はなく、かといって他に何をするというのも特に思い浮かばなくて、空を見上げて時間を潰していただけだ。
「……特に何もしていません」
正直に香穂子が答える。吉羅の表情は増々不愉快そうに歪められた。
「何も用がないのに、この寒空の下でぼーっと座り込んでいたと言うのかね?」
「はあ」
嘘ではないので、曖昧に答えつつも香穂子は頷いた。
吉羅は、盛大な溜息を付いて片手で額を押さえた。
「君がどういう状況でどうなろうと大した興味はないが。……それでも、ヴァイオリニストの端くれとして、自分の体調管理に気を付けようという意識はないのか?」
きょとんとした香穂子が、大きく瞬きをする。
言い方は突き放すように冷たいが、それでも一応香穂子のことをヴァイオリニストの端くれとして認めてくれているんだと、妙なところに感動する。
「……何かね?」
「いいえ」
自分をじっと凝視している香穂子に気付いた吉羅が、片目を細めながら香穂子を軽く睨む。小さく笑いながら香穂子は首を横に振った。
「……用がないのなら、もう帰りなさい。アンサンブルの練習もある。決して好き勝手にしていい立場ではないだろう」
「あ、でも。……こういう天気の時ならば、もしかしたらもうちょっと待てばいいものが見られるかも」
「いいもの?」
鸚鵡返しで吉羅が尋ねる。だから、と言いかけて、不意に香穂子は上空を振り仰いだ。
「……あ、やっぱり」
降り出した、と。
声にならない声が、唇で言葉を紡いだ。
つられるように吉羅が空を見上げると、不意に視界が真っ白になった。驚いて指を上げて目元を拭うと、冷たい潤いが指先に触れた。瞬いて、もう一度空を見上げると、重い色の雲から千切れるように、大粒の雪が降り出していた。
視線を元に戻すと、目の前で香穂子が宙に手を差し伸べ、雪のひとひら、ふたひらを受け止めている。
まるで大事なものを捕まえるように、そっと掌を握り締めた。
「……帰ります」
勢い良く宣言して、香穂子が段差の上に置いていた自分の荷物を手に取る。
ずれそうになるマフラーを片手でしっかりと巻き直して、お騒がせしました、とぺこんと吉羅に頭を下げた。
「日野くん」
そのままあっさりと帰路に付こうとする香穂子の背に、吉羅は呼びかけた。
目を丸くした香穂子が、肩越しにそんな吉羅を振り返る。
「雪が降り出すのを待っていたのか?」
他に何をするでもなく。
体調を崩すかもしれないリスクを厭うことなく。
ただ、降り落ちるかどうかも分からない雪のひとひらを捕まえるためだけに?
「降るかなっていうのは五分五分だったんですけど」
もし、今年最初の雪が降り始めて。
その、最初のひとひらを捕まえることが出来たなら。
何か自分の抱えているものが、全て上手く行く気がして。
「賭けというか……験担ぎみたいなものだったんですけど、勝ったから満足しました」
ぐっと拳を握って屈託なく笑った香穂子に、吉羅はまず呆れて。
……そして、何だか呆れるのを通り越して、羨ましくなってしまう。
そう、ある意味彼女のこの運の良さというものは。
あまり深く物事を考えず、何事にも躊躇のない彼女の思い切りの良さが、引き寄せるものなのかもしれない。
「……日野くん」
再度吉羅が名を呼ぶと、不思議そうに首を傾げ、香穂子がはい、と応じた。
吉羅は自分の腕時計を掲げ、文字盤の針の位置を確認しながら、眩しそうに目を細めた。
「……あと小1時間ほど、私を待っていられるかね?」
「は?……はい、あの。時間は大丈夫ですけど、何か用でもありますか?」
尋ねた香穂子に、小さく吉羅は笑う。
それを見た香穂子は、微かに目を見開いた。……初めて見た、この男の、こんな穏やかな笑み。
「紅茶と甘いものでも御馳走しよう。無論、他の者たちには内緒でね」
「え?」
「君がそれを堪能している間に、私は仕事を片付けよう。そうしたら車で、君を家まで送って行く」
「ええっ!? いや、ちょっと待……っ、ていうか、何で急にそんな話に?」
驚きで目を白黒させる香穂子に、今度こそ本気で笑い出しながら、吉羅は努めて何でもないことのように告げた。
「せっかく君の幸運に立ち合わせてもらったのだから、それ相応の礼はしないといけないだろう?」
ひとひら、ふたひら。
地上へと舞い降りる雪の花弁は、見る間に世界を白一色の世界へと染め変えていく。
その最初の一片を捕まえる、他の誰かに取っては他愛のない、だが信じる誰か者には大切に抱き得る幸運を教えてくれた彼女には。
甘いお菓子と、暖かい紅茶一杯の返礼を。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.31】
お題を見ると、これは桜ネタなのか?と思いましたので、あえて裏切ってみました(あまのじゃくだから)。
香穂子に惹かれる理事と言うものが書いてみたかったのかもしれないです。お姉さんの面影とは別物の。
甘いものばかり書いていたので、その反動もあったかもしれませんが、意外にこの話は気に入っていたりします。


