油断大敵

衛藤→日野

 はっきりとライバル心を刺激するような。
 衛藤のように、誰も彼もに喧嘩を売る音じゃないから、難しい。
 気を抜いて、侮って。
 油断していると、あっという間に忍び込む。




 友人の一人が、「彼女の音も、別に悪くはない」と言い出すまで、正直衛藤も分かってはいなかった。
 拙い音色。根本的に技術面の力が足りてない。ボウイングは不安定で、ポジションが正確に定まっていないから、予想外のところで音が乱れる。
 音階を外したことには彼女自身がすぐに気付くから、元々聴覚はいいのかもしれないけれど。
 初めて彼女の音色を聴いた時、衛藤はその音を蔑んだ。素人とまでは言わなくても、音楽的レベルが高いと評される星奏学院の生徒としては、見劣りのする技量。いきなりの衛藤の厳しい指摘に、彼女は面食らったようだった。まるで、批判されるのが初めてであるかのように。随分甘やかされてるな、と衛藤は思った。
 その後、再会は海岸通りの歩道で。
 出会った時の衛藤の不遜な態度をしっかりと覚えていたらしい彼女は、衛藤を見つけると追いかけて来た。これっぽっちもいい印象なんて持っていないだろうに、わざわざ自分を追いかけて来た彼女は、相当の負けず嫌いなのか、単なる物好きなのだろうと思ったっけ。
 そうして知り合った日野香穂子が、素直で真直ぐな人間なのだというのは、すぐに分かった。
 衛藤の遠慮のない辛辣な意見を、彼女は真正面から受け止める。へこたれることも拗ねることもなく、真面目に自分の糧にする。「また、練習見てもらっていい?」と笑って帰って行く後ろ姿に、何だか次の休日を待ち遠しく思うようになった。
(まだまだ下手で、危なっかしくて、放っておけなくて)
 躓きそうになる彼女に、衛藤は手を伸ばす。それは、自分が彼女より優位に立っているという確信があったからこその、衛藤の余裕だった。
 だが、彼女が参加するというアンサンブルコンサートの日程が近付いて来る頃。
 香穂子の音は、化けた。

「……悪くないんじゃない?」
 一緒に聴いていた友人が、ぽつりと呟く。
 衛藤は怪訝な顔でその友人の横顔を見つめる。衛藤の視線を感じた友人は、慌てたように「いや、俺は素人だから、よく分からないけど」と付け加えた。
「上手い下手ってのはともかくとしてさ、何か……いい演奏だよ。心地いいっていうかさ」
 相変わらず、技量は未熟だ。練習を積み重ねた分、出会った頃程の不安定さはないが、衛藤のように長年ヴァイオリンに携わって来た人間が持つ、有無を言わせぬような圧倒的な技巧は持ち合わせていない。
 ……それなのに。
「衛藤くん!」
 演奏を終えた香穂子が、笑顔で衛藤を振り返る。
 いつだって、分かりやすく、真直ぐに感情を向けてくる彼女だから、衛藤はその度に戸惑う。
「どうだった? 少しは良くなったかな?」
 不安そうに、背の高い衛藤を見上げて来る香穂子の音色を。
 正直、衛藤はどう評したらいいのか分からない。
 まだ、技術的には未熟で。改善の余地も沢山あって。
 それでも、友人が言ったように、彼女の奏でる音色が「心地いい」ものであることも分かる。
 屈託のない、朗らかな彼女の存在。
 その心地よさのままに。
「……まあ、少しくらいマシにはなったんじゃない?」
 その言葉が、自分の本心とは少しずれた言葉なのだと知っていても。
 そう告げるしか、衛藤には術がなかった。


 ベッドの上に転がって、目を閉じると。
 不意に、昼間聴いた香穂子のヴァイオリンの音色が浮かんで来る。
 尊敬するプロヴァイオリニストのCDの音色でも、自分が奏でるヴァイオリンの音色でも殺せない、胸の奥に忍び込んだ音色。
「……んだよ、これ……」
 挙げた片腕を両目の上に乗せて、苦々しく衛藤は呟く。
 それは、衛藤では理解出来ない、説明の出来ない音の魅力。
 拙くて、決して上手い演奏だとは言えないのに。
 消えない、殺せない。
 衛藤の心の奥底で、優しく息づく心地のいい音。

 見下していなかったといえば、嘘になる。
 足りない技量、未熟な音色。
 数々のコンクールをこなし、思い通りの評価を得て来た衛藤にとって、香穂子のヴァイオリンは自分を脅かすものではなく。
 そう、きっと。
 自分は油断していたのだ。
 彼女の演奏に心を奪われることはないと、高を括っていた。

(出逢わなければよかった)
 彼女の音色。
 ……彼女の存在そのものに。
 そうしたら、自分は迷わずに済んだ。
 自分の中に確立した自信を微塵も疑うことなく。
 悠然と立っていられたのに。

「……あんたのせいだ」
 呟いたら、胸が痛かった。
 油断をしていたら、いつの間にか。
 気付かぬうちに、忍び込んでいた。

 心の中の消えることない音色、息の根を止めようとしても生き延びる存在が。
 衛藤の胸を痛いくらいに締め付けて。
 衛藤が信じていたものを、根底から壊し始める。

 その、どこか甘いような痛みに。
 思いがけない、予想外の名前があることを。

 衛藤はまだ、よく分かっていなかった。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.22】

ゲームから受ける衛藤の印象そのまんまを書いたつもりなんですけど、どうなのかなー(笑)
中学生っぽくないような衛藤ですけど、いろいろ反応の仕方とか見てると、やっぱり他のキャラに比べて幼いなーと思うのです。
それが衛藤の良さなんでしょうけどね。

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