未来へ

衛藤×日野

 憧れてる人がいるんだよ、と、香穂子は嬉しそうに笑って言った。
「すごく綺麗なヴァイオリンを弾く人なの。何か、私のボキャブラリーじゃ上手く表現出来ないんだけど、圧倒されるって言うか」
 その音色を目指して、ヴァイオリンを弾くのだと香穂子は言う。地道に練習を重ねて上手くなった人だから、自分もそんなふうに練習を重ねなければと、衛藤と逢う時にも欠かさずにヴァイオリンを持って来る。
「……そんなに凄いの? そいつ。俺とどっちが上手い?」
 自分の実力にそれなりの自信がある衛藤だから、上手い人間がいると言われると、妙に反発せずにはいられない。……何よりも、香穂子が憧れる、というのが気に食わない。
「えっと……ていうか、比べられないよ。衛藤くんと月森くんの音って、また系統が違うもの」
 困ったように笑って、香穂子が答えた。月森ってヤツか、と衛藤はその名前を脳内にインプットする。
「じゃあ、質問変える」
 直に座り込んでいた地面からすっくと立ち上がって、衛藤は香穂子の前に立つ。身を屈めて、香穂子を覗き込んで尋ねた。
「俺とそいつ、どっちが好き?」
「えええっ!」
 大声で驚く香穂子が数歩後ずさる。逃げるなよ、と衛藤が香穂子との距離を詰めた。
「好きって……そりゃ、月森くんのヴァイオリンには憧れるけど、そういう目で見たことがないっていうか、そういう意味で言ったら、当然……」
 もごもごと口籠る香穂子に、衛藤はにやりと笑う。
「当然……何?」
「……イジワルだなあ、もう!」
 これ以上は言わない!と香穂子は膨れてそっぽを向く。もうちょっと我慢していたら、ちゃんと言ってくれたかもしれないのに、急かしてしまった自分を、衛藤はほんの少し後悔した。

(……でも、香穂子が憧れる、音。か)
 香穂子に出逢うまで、衛藤が知る世界の頂上に立っていたのは、自分という奏者だった。
 当然、世の中でヴァイオリニストとして名を馳せている玄人と比べるものではない。そういう意味では自分には、まだまだ上へ昇る余地があるとは思っていた。
 努力と、それに伴う実力とできちんと裏打ちされた衛藤のヴァイオリンには、ちゃんと結果もついてきた。様々なコンクールで、狙った通りの結果を手に入れてきた。
 その価値観を覆したのが、香穂子の音色だ。
 決して上手いとは言えない。コンクールなどで目に見える結果を手にできるとも思えない。それでも、香穂子の音色は老若男女問わず、人の心を惹き付ける。
 今、衛藤が目指すのは彼女のように、理屈抜きで誰かの心を惹き付ける音色。そんな音色の持ち主が憧れるヴァイオリニストというものには、単純に興味を引かれた。
「……聴いてみたいな、その月森ってヤツのヴァイオリン」
 空を睨んで衛藤が呟くと、香穂子は苦笑するようにして俯く。少しだけ寂しそうな表情で、無理だよ、と首を横に振った。
「月森くん、留学しちゃうの。……もうすぐ」
 彼の綺麗なヴァイオリンに焦がれて、香穂子はこの音楽の世界へ足を踏み入れた。留学という道筋は彼に似合いだと思うし、応援する気持ちはもちろんあるのだけれど、単純に知り合えた友人が……憧れてきた目標が、いなくなってしまうのは……寂しい。
 ふうん、と衛藤が不満そうな声を漏らした。
「なあ、その月森ってやつ。3年?」
「ううん、私と同じ学年。だから、余計に凄いなって思うの」
 寂しさを振り払うように、香穂子が屈託なく笑う。もう一度ふうん、と衛藤が呟いた。
「後2年。……2年なんて、結構あっという間だよなあ?」
 誰に言うでもなく、独り言のように衛藤が言って、納得したように頷く。「そうだね?」とよく分からないまま、語尾に疑問符をつけて香穂子が首を傾げた。

 彼女との埋まらない2年分の年の差。
 だけど、その分衛藤には、2年分のまっさらな未来がある。

(……今は、あんたの憧れにはなれないけどさ)
 むしろ、香穂子の音に憧れる衛藤が、香穂子を追う立場だ。
 確かに技量では衛藤の方が秀でているのだが、それだけでは衛藤の音は香穂子の『憧れ』にはなり得ない。
 彼女が憧れる音がどんなものなのか、それを聴く機会のない衛藤には分からないけれど。
 それでも、2年後の未来では。
(俺の音がどんなふうになっているか、分からないけど。……あんたが憧れる音に、俺の音がなってればいい)
 あんなふうに、輝く瞳で見つめてくれるのが。
 その月森とかいう男のものでなく。衛藤の音になってればいい。
「そうすれば、あんたも寂しがる必要ないし。一石二鳥ってやつじゃん?」
「え?……え? 何?」
 訳が分からない香穂子が、困ったように首を傾げる。「分からなきゃいいよ」と、ジャケットのポケットに両手を突っ込んで、背伸びをする衛藤が、冬の澄んだ空を仰いだ。

 前向きに、真直ぐに。
 衛藤は未来へと突き進んでいく。
 彼女との2年間の差は、衛藤が彼女の全てになるための成長に必要な時間だと思えば、むしろ足りないくらいなのかもしれない。
(だから、それまでちゃんと待っててくれよな)
 衛藤が進む分、きっと彼女も同じように進んでしまうのだろうけれど。

 そこは、若さの特権と言うやつで。
 彼女が追いつけない、奇跡のような成長っぷりで、未来へ進む。
 いつか、他の誰でもない自分こそが。
 彼女があの憧憬の眼差を向ける存在になれるように。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.15】

図式としてはvs月森なのか(笑)
ヴァイオリニストとしては、香穂子にも、月森にも衛藤は衝撃を受けるのではないかと思います。
……と、これを書いている時思っていたら、案の定2fアンコでは、月森とのヴァイオリン対決イベントがありましたね。その勝負に物おじしないのは、衛藤であるが故って気はします。

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