ある晴れた日に

衛藤×日野

 公園のベンチにどっかりと腰を下ろして、背もたれに背中を預けて、空を見上げる。
 気温は寒いけれど、風もないし、陽の当たる場所にいれば過ごしやすい冬の午後。澄み切った空の色をしばらくの間黙って見上げていた衛藤は、ジーンズのポケットに突っ込んでいた二つ折りの携帯を、指先で引き抜いた。
 空に掲げつつ、慣れた番号を呼び出して、耳に当てる。……ヴァイオリンを弾いている時だとなかなか通話に応じてくれないと分かっているから、延々とコールする電話を、根気強く待ってみた。
『は、ははは、はいっ! 日野です!』
 予想通り、コール十三回目で香穂子が電話に出た。慌てふためいた雰囲気と、いつも衛藤からの電話に応じる時には「香穂子」と名乗るのに、ファミリーネームで応じたことで、やはりヴァイオリンの練習中で、誰からの着信かも確かめないうちから慌てて電話に出たことが伺え、衛藤は苦笑混じりに溜息をつく。
「……俺」
 ぼそっと受話器に向かって呟いてみると、安堵したような香穂子の声が、『ああ、衛藤くんかあ……』と返す。名乗らなくても、声だけで分かってくれたことに、ちょっとだけ嬉しくなったことは、彼女には悟らせない。
『どうしたの? 今日は何も約束してないよね?』
「約束してなきゃ、電話しちゃマズイかよ」
 戸惑ったような香穂子の問に、今度はちょっとだけ不愉快になって、その不愉快さを隠さずに、衛藤は間髪入れずに言い返す。そうじゃないよ、と香穂子が電話の向こうで苦笑いした。
『私が何か忘れてた、とかじゃないんなら、いいんだよ』
「あんたが俺との約束忘れてたりしたら、こんなテンションじゃ済まさない」
『ああ、そっか。だよねえ』
 小さく吹き出した香穂子が納得したように呟き、自分で言ったことなのに衛藤は何だか増々不機嫌になる。それが、自分の子どもじみた我侭だと分かっているから、懸命にその不機嫌さを呑み込んだ。
「あのさ、本題なんだけど。あんたこれから時間あるの? ……ヴァイオリンの練習なんかしてるってことは」
『ええっ! 何で普通に私がヴァイオリン練習してたことがバレてるのかな!?』
 心底驚いたような香穂子の声に、先程までの不機嫌さが全て吹っ飛ぶ勢いで、衛藤は吹き出してしまう。あれほどにあからさまなのも珍しいと思うのに、自分で自分の行動パターンを分かっていないところは、香穂子らしいと言えばそうなのだけれど。
「あんたが、単純なんだからしょうがない」
『うう……否定はしないけど、……っていうか、衛藤くん、無茶苦茶笑い過ぎだよね!?』
 思わず声を震わせたまま喋る衛藤に、香穂子が憤慨する。顔を真っ赤にして、床を踏みしめてる、そんな姿も目には見えなくても容易く想像出来た。
「それはともかくとして。時間、あるの? ないの?」
 脱線しそうになる話題を、衛藤が強引に元に戻す。まだ受話器の向こうで、懸命に不機嫌さを強調する香穂子が、抑えた声で『……あるよ』と答えた。
「じゃあ、出て来いよ。いつもの海岸通り近くの公園にいるからさ」
『……うん、分かった。でも、急に何で? 何か用があるの?』
 基本的な疑問に立ち戻った香穂子が問う。何でそういうところを突っ込むかなとがっくり肩を落としつつ、衛藤がぼそぼそと受話器に向かって呟く。
「……用がなきゃ、呼び出すなって?」
『言ってないけど! ……呼び出してもらう方が逢えて嬉しいあわわわわ!』
 いつもの調子で、聞かれていない余計なことまで口走った香穂子が、誤魔化すみたいに不自然に言葉を途切れさせる。項垂れたまま、一瞬聴こえた言葉に、衛藤は目を丸くして。
 ……そして、嬉しさに笑みを浮かべる。
「だから、そーゆーこと」
『……え?』
 戸惑ったような香穂子の声。本心を素直に曝け出すのに、少し勇気がいるけれど。
 嬉しい気持ちはきちんと返した方がいいんだと。……そのくらいのことは、衛藤にも分かるから。
「……香穂子に逢いたいから。こうしてわざわざ、呼び出してるんだよ」


 心地いい、冬の午後。
 空の色は澄み渡って、目の前に広がる海は、綺麗に陽射しを反射して。
 他愛無い、とある晴れた日。
 二度と見ることが叶わないわけではない、ありふれた日常のワンシーン。
 だけど、今日この日、同じ時間の同じ風景は、二度と来ない。
 ならば、その心地いい、ある晴れた日を。
 誰よりも一緒にいたい人と過ごしたいと願うことは。
 そんなに大層なことなのだろうか。

(……そうだよな。ささやかな願いごとだけど)
 それが、『願う』ものである以上。
 簡単にその辺りに転がっているような機会じゃない。
 よしんば、それがどこにでも存在するような、当たり前の幸せなのだとしても。
 手を伸ばして、拾い上げて。
 何なのかを噛み締めてみなければ、それが『幸せ』であることにも気づけないのだ。


「ああ、そうだ。……くれぐれもヴァイオリン、持って来るなよ」
『ええっ!?』
 思い付いて忠告すると、持参する気満々だったらしい香穂子が困ったように声を上げた。
「あんた、ヴァイオリン持ってきたらアタマ全部ヴァイオリンに持ってかれて、周りが見えなくなるだろ? 今まで練習してたんなら、それで今日の練習は充分だよ」
 しばらく受話器の向こうで困惑していた香穂子は、やがて心得たように『分かりました』と返答する。じゃあまた後で、と衛藤は指先で通話を切った。


 練習を積み重ねなければ、ある程度の技量を身に付けなければ。
 ヴァイオリンを弾く意味はないと言ったのは、あまり彼女の事を知らなかった、少しだけ遠く感じる昔の自分自身。
 だけど、ヴァイオリン……音楽というものが。
 ただ、技術を磨き、周りを圧倒して、そうして力づくでねじ伏せるんじゃなくて。
 寄り添って、語りかけて。そうして優しく染み込んでいくことも出来るのだということを、衛藤に教えてくれたのは、香穂子だったから。
(晴れた日には、ちゃんと青空を見て)
 ヴァイオリンばかりを見ていないで、自分の作る音の世界に没頭していないで。
 綺麗な色の空と。光を反射する海と。
 きらきらとした輝くものを、ちゃんとその目で見て。肌で感じて。
(そうして、あんたが知ったものを、そのヴァイオリンの音で、俺にも教えてくれたなら)

 それだけでいい。
 それが、きっとあるべき彼女の音なのだろうから。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.22】

衛藤創作の中では一番書きづらかったお題です。
何か、穏やかにほのぼのとする雰囲気が衛藤にないっていうか……ひなたぼっこでのんびりお茶をすする印象がないものですからねえ(って、私のほのぼのの認識もどうかしている)。
ただ、そういうものを衛藤が知っていくのは、香穂子の影響なんだと思います。

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