衛藤の演奏を聴いていた友人が、曲の合間にふと気がついたように、ぽつりと呟いた。
演奏途中の半端な部分だったけれど、躊躇わずに衛藤は演奏を辞める。それを、衛藤が演奏の途中に不用意な一言を投げ込んだことに腹を立てたせいだと思ったのか、友人が慌てたように顔を上げた。
「あ、わり。別に邪魔する気があったわけじゃ……」
「どんなふうに?」
言い訳しようとした友人の言葉尻に声を乗せ、衛藤が尋ねる。咄嗟に応じることが出来なかった友人が「へ?」と間抜けな反応をした。
「どんなふうに、俺の演奏、変わった?」
重ねて尋ねると、生真面目な友人はううん、と首をひねる。元々音楽に深く精通しているような人物ではなく、その辺に流れている音楽を耳から耳へ通り抜かせているようなタイプだから、詳細を説明させるのは酷かなと衛藤は小さな溜息をつく。
「あー、うーんと。素人目だから上手く言えないけど。なんか、とっつきやすくなったよ」
「……へえ」
懸命に悩んで、自分なりの答えを探してくれた友人の言葉に、衛藤は素っ気無い一言を返す。
別に不機嫌になったわけでも、気に入らなかったわけでもなく、そうなのか、と単純に呑み込んでしまったから特に言うべきことがなくなってしまっただけだったのだが、どうもそっち方向へ勘違いしてしまったらしい友人が、更に慌てた様子で続きの言葉を重ねて来る。
「前のお前の演奏ってさ。確かに上手いんだけど、上から目線っていうか、言うなれば『俺のヴァイオリンを聴け-!』ってオーラ全開って感じして、何か、迂闊に近寄れないっつーか、触ったら潰されそうっていうか、そういう感じしてたけど、最近は、ちょっと違う気がする」
「へえ」
今度は、微苦笑混じりに呟いてみた。
聞きようによっては辛辣な意見だとも思ったが、彼なりの素直な意見であることは伝わったので、逆に好ましく思う。変に回りくどかったり、如何にもオブラートに包まれてるという感じならば、余計に勘に障っただろう。
「満たされてるんだなあ。若いっていいよな。成長する余地があってさ」
「ジジイかよ」
何を思ったのか、しみじみと頬杖をついて呟いた友人に、衛藤は今度こそ、本気で笑った。
(満たされてるんだなあ)
何気なく友人が言った言葉を、帰り際、頭の中で反芻してみる。
今までの自分に、何かが欠けていたとは思わない。何かに飢えていたとも。ヴァイオリンを弾くための環境も、才能も十二分に与えられていて、それがとても恵まれていることだということにも気付かないで、やりたいことをやってきた。
だが決して、自分は完璧などではなかった。確かに衛藤のヴァイオリンには、欠けているものがあった。コンクールや、発表会。何かを投げかける機会に、望み通りのものが投げ返されてきたから、愚かな自分は、自分に何かが足りないとか、そんなことは微塵も考えなかった。
自分は、これでいい。
これからも、努力を重ね、技術を磨き、誰も彼もを押し退けて、頂点に立つ。
そうする力はあるし、怠けたりもしない。
誰も自分の側に辿り着かせない。どうにも出来ない力の差で、周りを圧倒してみせる。
そんな思いばかりでヴァイオリンを奏でていた自分は、どれだけ幼かったのだろうと。
……今ならば、思える。
誰もが迂闊には近寄れない場所で。
独りよがりの音楽を弾いて。
いったい何が手に入れられると思っていたんだろう。
地位とか名誉とか。
最初にヴァイオリンを手にした時に望んだものは、そんなものでは決してなかったはずなのに。
ちょっと、周りの同年代の子ども達よりも上手く弾けるからとちやほやされて。
自分は、何も分からないまま、いつの間にか歩くべき道を間違えていた。
(教えてくれたのは、あんたの音色)
技量は未熟。コンクールに出たからといって上位に食い込めるような演奏ではなく、発表会やコンサートに出たからといって、ひとり注目を浴び、喝采を受けるような価値があるとも思えない。
だけど、確かに心に残る。
辛い時、苦しい時。優しく語りかけるような拙い音楽が、確かに萎えそうになる心を支えてくれる。
お守りみたいにこの手に握り締めて、大事に大事に、守りたくなる。
……本当は。
自分に近付く何もかもをぶった切って、傷付けて、誰も近寄らせないようにしたかったんじゃなくて。
……たった一人で高い位置に君臨して、足元にある何もかもを嘲笑いたかったんじゃなくて。
誰かの心に止まる、音楽を作りたかった。
大事に抱き締めて貰えて、その心の支えとなれる。
そんな暖かな音楽を奏でたかった。
衛藤自身すら知らなかった、そんな心の奥底に沈んでいた夢を浮き彫りにしてくれたのは。
まぎれもなく、彼女のヴァイオリンだった。
(あんたのヴァイオリンが好きだよ)
(……そして、何よりもあんたが)
素直に言葉には出来ない。
だが、衛藤にはヴァイオリンという手段がある。
自分の心を満たす暖かな優しい想いは、ヴァイオリンの音色を通して、誰もが確認出来る場所で明らかにされる。
きっと自分は。
誰よりも完璧を……上の世界を目指していく中で。
たくさんのものを見失っていた。
何もかもを手にしたつもりでいたのに。
何一つ、自分で納得して掴んだものがなかった。
(俺は、少しは優しくなれてるのかな)
切り捨てるんじゃなくて。
突き放すんじゃなくて。
高い位置にいられるのであれば、そこを目指して昇って来る誰かに、ここへおいでと手を差し伸ばしてやることが出来るだろうか。
古い小説の一遍にある、一筋の蜘蛛の糸に縋って空を目指す人達を。
蹴落としてしまうような、寂しい人間にならないように。
待ち合わせた海岸通りの側の公園のベンチで。
ヴァイオリンケースを傍らに置いて、歩いて来る衛藤をすぐに目を止めて、嬉しそうに笑って、立ち上がって手を振る人がいる。
途端に、胸の中に溢れて来る、暖かくて優しい。ほんの少しだけくすぐったいような気持ち。
その気持ちを大切に心の中で握り締めて、衛藤はこれからも、きっとヴァイオリンを弾き続ける。
その音色が、彼女が奏でる音色のように。
……この心を満たす、穏やかさのままに。
暖かく、優しく。
誰かの心に寄り添うように。
傷付く心を支えるように。
親しみやすく奏でられるのであれば。
それこそがきっと。
衛藤自身が、幸福であることの。
その、証し。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.8.22】
衛藤は、香穂子との出会いでどう成長するかを見るのが一番楽しみな子だと思います。それによって、ヴァイオリニストとしても飛躍する子だと思いますしね。
しかし、この子は友人に恵まれていると思います。普通、こんな生意気な中坊(笑)にでかい態度取られたら、腹立てると思うんだけどなあ~(笑)


