お願い、ぎゅっとしていて

衛藤×日野

 バケツをひっくり返したような雨というのは、こういう雨のことを言うのだろう。
 味気ないグレーの薄汚れた壁に頓着なく背を預け、轟音と称しても差し支えなさそうな音量で地面を叩く目の前の雨を、衛藤は見るともなく眺めている。
 少し前までは微かな陽射しもあったのに、今はもう、時間さえ見失いそうなくらいに周りの景色が暗い。時折遠くの厚い雲の隙間で、雷の光が明滅するのが伺えた。
 閃光は遠くても、地を這うような低い雷鳴の音は近い。
「……あのさあ」
 どしゃぶりの雨、厚く空を被った黒い雲。
 目の前にあるものを眺めつつ、半分呆れるように「……大丈夫か?」と尋ねた衛藤の声は。
 雷鳴と雨音、そして彼女が発した小さな悲鳴にかき消されて、隣でうずくまっている香穂子には届かなかったかもしれない。

「そんなに怖いもんか? 雷って」
 ヴァイオリンの練習をしていた公園の管理棟、その軒先に避難したのは、香穂子と衛藤だけだった。少し走ればお洒落なテナントが入ったビルはたくさんあるし、駅も近い。もともとあまり天候が良くなかったことで、公園にいた人影も少なくはあったのだが、おそらく自分たちと同じような境遇の人達は、こんな中途半端な場所に留まらず、そういう場所へと行ってしまったのだろう。
 正直、衛藤もそのつもりだった。
 まだ早い時間だから、このまま帰るなんて気は毛頭ない。降り方からして一過性のものだろうし、どこかのコーヒーショップかファストフードの店で時間がつぶせれば良かった。
 だが、衛藤と香穂子はそういう場所へたどり着けなかった。
 雷が心底苦手だと言う香穂子が、とりあえず近くの管理棟の建物に逃げ込んだ途端、動けなくなってしまったからだ。
 休日の管理棟のドアは開かれていない。軒先にそれなりのスペースがあることは救いだったが、香穂子の傍らには、当たり前のように湿気大敵のヴァイオリンのケースが置いてあるし、雨がもう少し小雨になって、雷鳴が落ち着かないことには、どうやらここからは動けそうにない。
 うずくまった香穂子が、涙目の視線を上げて、小さな声で「ごめんね」と謝ったが、衛藤としては別に不愉快なわけでも、不機嫌なわけでもない。
 そんなに怖いものなのかと、素朴な疑問を抱いただけで。
「……すごく小さい頃に、家で一人で留守番する時があって」
 簡単に雨音と雷鳴にかき消される、小さな小さな声。聴き取り辛くて、衛藤はその場にしゃがみ込んだ。うずくまる香穂子と距離が近付いて、鍛えられた鼓膜がその小さな音色を拾う。
「近くに雷が落ちて、停電したりして。ちょうど夕方くらいだったから、家の中が真っ暗になっちゃって。それなのに、家の中に誰もいなくて……それ以来、駄目なの。情けないんだけど、条件反射で身体が竦んじゃって」
「……トラウマってやつか」
 成長してからの経験であれば、一笑に付するくらいの些細な出来事になるだろう。だが、幼い頃の経験は理屈では測れない。
 怖い、と認識してしまえば、そういうものとしてインプットされてしまうのだ。
 また、雷鳴が轟いて、遠くの空に稲妻が走る。両手で耳を塞いで身を縮めた香穂子に、衛藤は雷鳴の隙間を突いて、ぽつりと呟いてみた。
「あのさ。……俺が、何かしてやれることってある?」
 雷に怯える姿は、意外なような、らしいような。
 今まで知らなかった彼女の弱点を、可愛らしいと思ったりもする。
 だが、そこに怯える香穂子がいて。
 ただ、目の前の雨と遠くの雷鳴を眺めていることしか出来ない自分が、何だかとても無力に思えて、悔しくなる。
 直接聞かなければ分かってやれないことは、少し情けなくもあったけれど、このまま黙っていて、分からないまま、何も出来ないよりもいい。
 涙目の香穂子が、そっと耳から両手を離す。きょとんとした顔で、衛藤を見つめた。
 ……居心地が悪くて、何だか目が合わせられない。香穂子側の自分の半身に、痛いくらいの香穂子の視線を感じた。じゃあ、と小さな声が呟いた。
「……ぎゅっとしてくれる?」
「は!?」
 大声を上げて、衛藤が香穂子を振り返った。驚いたように、香穂子が目を見開く。
「だ、駄目?」
 衛藤に向けて差し出していた片手を、香穂子は慌てて引っ込めた。「……手かよ」と衛藤は小さく吐き捨てる。
「ごめんね、子どもっぽいこと言って」
「……別に、いいけど」
 拗ねたように、衛藤が呟く。香穂子が引っ込めた片手を、手を伸ばして掴んだ。
 衛藤の手の中にすっぽり収まる小さな手を、大事に握り締めて。そのまましばらく、黙って目の前の雨を見つめていた。
 繋いだ手から、微かに伝わる香穂子の震え。離されないようにと懸命に握り返す手から、彼女の怯えが伝わって来る。足りてないじゃん、と衛藤は心の中で呟く。

 日野香穂子という人間は、子どもっぽくて、無邪気で。
 危なっかしくて、目が離せない。
 それでも、彼女は。
 決して、最後の最後まで、自分に甘えてくれようとはしない。
 まだまだ、衛藤が持つ力は、こんなものじゃないのに。
 ……きっと、もっと。強い力で彼女を守ることが、出来るはずなのに。
(……「甘えろ」っつったって、簡単に甘えるようなあんたじゃないから)
(俺が、ちゃんとやらなきゃ駄目なんだよな)
 頼って、甘えて欲しいなら。
 衛藤の方が、ちゃんとその意志を彼女に示さなければ。

 ……こうなってみると、香穂子が雷が苦手で、こんな味気ない場所に足留めされてしまったことは。
 逆に、幸運だったのだと思う。

 繋いでいた手を引き寄せて、衛藤は腕の中に、そっと香穂子の華奢な身体を抱き締めてみる。戯れに肩を抱いたり、触れたりしたことはあるけれど、こんなふうに明確な意志を持って抱き締めるのは初めてで。
 柔らかさと、鼻孔を満たす彼女の香りに、何だか目眩がした。
「えっ……え、え……衛藤、くん……?」
 一瞬、何をされたのか理解出来ない香穂子が、腕の中で硬直して。それから、上擦った声がくぐもって響く。
 小さな身体が微かに震えて。どうしようと逡巡する気配がして。
 困ったように、そっと衛藤のTシャツを掴んだ指先を、衛藤は愛おしく想う。
「ぎゅってして欲しかったんだろ? 手を繋ぐより、これならもっと。……怖くないだろ」
 躊躇いがちに抱き締めていた腕で、もう一度強く香穂子を抱き締め直して。
 笑い混じりに呟いた衛藤の、押し当てた頬で感じる鼓動が、香穂子が想像するよりもずっと早くなっていたから。
 香穂子は、何だか急に可笑しくなって。
 ……何よりも、香穂子の願いを聞いて、強く抱き締めてくれる彼の腕が、嬉しくて。
 うん、と頷いて。
 微笑んで、そっと目を閉じる。

 相変わらず、空は雷鳴が轟いて。
 地面を叩く雨も、弱まる気配を見せないけれど。
 それでもその全てが、まるで手の届かない場所に。
 突然、遠ざかってしまった気がした。




あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.11】

これが、この企画で最初に書いた創作だと思います。
うちの香穂子はなかなか簡単には人に甘えないので、甘えるとしたら退っ引きならない状況なんだろうなあ~
特に相手が衛藤(年下)だからなあ~ということで、こういうネタが降って来たのでした。
強引なように見えて、衛藤も一杯一杯なんですよね(笑)

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