受験生なのに、こんなに頻繁に逢ってていいのかな?と香穂子が躊躇ったら、「受験生らしく、毎日毎日勉強とヴァイオリンの練習とに時間を費やしてんだから、たまには息抜きさせろよ」と電話の向こうで衛藤が笑った。
賑やかな人込みを抜けて、いつも衛藤がいる付近に差し掛かると、不意にヴァイオリンの音色が聴こえて来た。自信に満ちた、存在感のある音色は、衛藤らしい彼だけの音。同じヴァイオリニストでも、月森や王崎の演奏とはまた違う。自信を持っているだけあって、技術的なことはもちろん飛び抜けているのだが、良くも悪くも彼の性質そのままに、自己主張が激しい。でもその自己主張こそが、嘘を付いたり誤魔化したりしない彼の真直ぐさの表れのように見えて、香穂子は好ましく思うのだった。
とにかく目立つ演奏なので、衛藤の周りには既にギャラリーがぐるりと何層もの円を描いて集まっている。演奏に聴き入っている聴衆の後ろから懸命に衛藤の姿を探すけれど、なかなか全身像までは確認出来ない。
(仕方ないか……)
音は、ちゃんと届く。だから香穂子は人垣の外側に立って、彼の演奏が終わるのを待つことにした。
それにしても珍しいなと、目を閉じて、音に聴き入りながら香穂子は思う。
衛藤はあまり、人前で演奏をすることがない。もちろん香穂子の練習を見てくれる時や、香穂子が乞う時には弾いてくれる。自分の演奏に、きちんと自信と誇りを持っている人だから、不完全な演奏を人前で披露することに抵抗があるのかもしれないと、香穂子は理解していた。
だからこそ、こんなふうに衆人環視の中で、衛藤自ら演奏するのは、珍しいことなのだ。
そして、奏でられる曲は『G線上のアリア』。こういう穏やかな曲を弾いているのも衛藤にしては珍しく、何だか意外な選曲だった。
「……香穂子!」
衛藤の声が響き、香穂子ははっと我に返る。ちょうど演奏が終わり、周りの観客が盛大な拍手を衛藤に贈っているところだった。人垣の中に香穂子の姿を見つけた衛藤は、そんな周りの歓声に頓着することなく、持っていた弓を振り上げた。
「着いてたんなら、声かけてくれればよかったのにさ」
駆け寄って来た衛藤に、香穂子は笑って首を横に振る。「衛藤くんのヴァイオリン、聴いてたかったから」と告げると、嬉しそうに衛藤が笑った。
練習を続けるか、先に昼食を取るかに少し悩んで、「休憩入れたい」という衛藤の意見に従って、昼食を取ることを優先する。ヴァイオリンを片付ける衛藤の隣で、その作業を眺めている香穂子に、ケースの中を見つめたまま、衛藤がぽつりと尋ねた。
「あのさ。……俺の演奏、どうだった?」
香穂子が驚いて、ぱちりと大きく瞬きをする。
衛藤が自分の演奏について、香穂子の意見を求めるのは初めてのことだ。
「どうって……」
困惑して、香穂子は自分の爪先を見つめる。先程の、衛藤のヴァイオリンの音色を思い出す。
衛藤にしては珍しい選曲。澄んだ音色の『G線上のアリア』。
自信に満ちた、堂々とした音色は相変わらず。ただ、珍しい楽曲の影響もあるのかもしれないが。
「衛藤くんが、こういう演奏するのって意外だったけど……悪いわけじゃないよ。うん、私は好き」
意外な衛藤の一面を見たような気がする。
それでも、根本にあるのは、やっぱり衛藤らしい音色で。
それでいて、何だかとても、優しくて、穏やかな音色だったのだ。
「……今のさ」
ヴァイオリンのケースの蓋をパタンと閉じて、衛藤はそのケースを担ぎ上げる。香穂子には背を向けるから、その表情は分からない。
「あんたに向けて、弾いてみたんだ」
いつだって、何かを語りかけて来る。
技術や才能という言葉では測れない、香穂子の、誰かの心に響く音色。
その音色との出会いは、衛藤の持っていた価値観を根底から覆して、粉々にして。
衛藤に、新しい目標をくれた。
いつか、香穂子のように、誰かの心に響く音を奏でたい。
上を目指しても、それなりの努力を費やせば、当たり前のように到達出来てしまう現実に、どこか冷めていた衛藤に、香穂子がくれた、目指して行く新しい光。
想いや感情をヴァイオリンに乗せる行為は、少し照れくさくて。何よりも、難しくて。
香穂子のように、素直には曝け出せない気がするけれど。
それでも、これから衛藤が奏でていく音楽は。
全て、香穂子へと向けられる。
「……俺さ」
上手く伝えられてる?と、どこか不安げに振り返った衛藤の。
そのヴァイオリンを奏でる指を、香穂子はそっと手に取る。
「……うん」
うん、と繰り返し、香穂子は頷く。
優しくて、穏やかな。
甘い、甘い綺麗な音色。
衛藤が奏でる、彼の新しい音色が。
香穂子の出逢いによって、生まれたものだと言うのなら。
こんなに幸せなことはない。
「ありがとう、衛藤くん」
「……まだ早い」
照れてそっぽを向く衛藤が、手を繋いだまま、手の甲でこつんと香穂子の額を叩く。
まだまだこれからだろ、と呟く衛藤に。
昼食を食べ終わったら、今度は自分が、ヴァイオリンの音色を届けようと香穂子は想う。
甘く、優しく。
幸せな、この気持ちから生まれて来る。
素直な音色を、貴方へと。
あとがきという名の言い訳 【執筆日:09.7.11】
衛藤創作は衛藤視点のものが多くなってしまったため、あえて香穂子視点のものを書いてみました。
何となく、香穂子がどういうふうに衛藤を捉えているのかが曖昧で、難しいのです。逆は結構分かりやすいんですけどね……。
衛藤のイメージはほのぼのから縁遠いのに、何故かそういう雰囲気のお題が多くて、書くのに苦労をしました。


