ただ、上手いだけの音が、目指すものでない時だってある。
心の中に、留めておくべきものでない時だってある。
じゃあ、いったいどんな音を。
心には残せばいい?
(ホントにこの学校、どこにいたって音楽が聴こえるんだよなあ……)
幾分苦々しい気持ちで、土浦は足下のサッカーボールを爪先で転がす。
苦い経験を経て、幼い頃から続けていたピアノを遠ざかってしまった自分には、何とも複雑な環境だ。
この学校を選んだのは、単に学力と通学距離との折り合いがついたからだ。そう、自分では思っているのだけれど。
容易に音楽を自分とは関わりのないものにはしてくれないこの現状が、何だか自分がピアノにいつまでも未練がましくしがみついていることの証のような気がして……気分が悪い。
(……気のせいじゃ、ないか)
おそらくは、土浦はまだピアノに心を惹かれている。
本当に、心を離してしまっているのなら、自分を取り巻く環境がどうであろうと、気にはならない。
この学院に溢れる音楽を、これほどまでに気に触るものだと認識してしまうのは、裏を返せば、土浦がいつまでもピアノを断ち切れないことの証明でしかないのだろう。
(きっかけが……あればいいんだよな)
溜息をつき、がりがりと片手で頭を掻く。
ライン引きが出来たらいい。
ピアノを完全に断ち切ることでも。
もう一度、ピアノに舞い戻ることも。
半ば意地で決めてしまった現状だから、余計に変わるキッカケが掴めない。何か一つ、大きな出来事でもあれば。
そうやって、結局は他人任せにしている自分自身こそが。
一番、土浦を苛立たせるのだろうけど。
(……あれ?)
遠くから聴こえる、沢山の楽器の音色。
流石に音楽科の連中の演奏だけあって、この校舎内で奏でられる音楽は、レベルが高いと思っていた。……技術力と好みとは別物だが。
どれだけ上手に聴こえる演奏であっても、この学院に通うようになってから一年と少し。
一度だって、何かを感じる演奏はなかった。のに。
沢山のレベルの高い音に混じって聴こえる、一つの異質なヴァイオリンの音色。
明らかに、ヴァイオリンを始めたばかりの子供のような音。
ボウイングは乱れて。
時折、音すらもすっ飛ばして。
どうしようもない、でたらめな音色だと思うのに、何故か。
……心地いい、音楽だった。
サッカー部の練習着にジャージを引っ掛けて、土浦は大きなストライドで校内を歩く。どれだけ沢山の音があっても、その音色は一際異彩を放っていて、その音を辿って歩いていた土浦は、すぐにその発生源に辿り着く。
「……普通科!?」
思わず、小さな声が漏れた。
正門前、他の音楽科の生徒の邪魔にならないためか、ほんの片隅の方で。
まだぎこちない仕草でヴァイオリンを掲げながら、拙い演奏を繰り広げる女生徒が一人。
目に映える赤の強い髪。
華奢な手足。
そして、普通科の制服。
名も知らぬ女生徒は、辿々しい手付きながら。
それでも、これ以上にないというくらいの嬉しそうな表情で。
懸命に、音楽を奏でていた。
(学内コンクール……クラスの女子が噂してたっけな。普通科がいるって)
着替える為に更衣室へ戻りながら、ふと教室内で話題になっていたことを思い出した。
騒がしい噂話は、羨望と嫉妬に満ちていて、聞いていて気持ちのいいものではなかった。
……それも仕方ないのかも知れないと思っていた。余りにも前例のない大抜擢なのだから。
……でも。
(あいつの演奏は、いい演奏になりそうな気がするな)
確かに、音は拙くて。
弓捌きもヴァイオリンの扱い方も、決して褒められたようなものなどではなかったけど。
荒削りの音も、お世辞にもコンクールに相応しいとは言えないけれど。
それでもあの女生徒は。
音楽を奏でる喜びを、知っていた。
その喜びを素直にヴァイオリンに歌わせた、あの音は。
ただ、訳もなく、心地のいいものだった。
(……すれ違う事があるかな)
普通科だし。
あの目立つ赤い髪は、目印になるだろうから。
廊下のどこかですれ違う偶然でもあれば、頑張れよと応援してやりたい。
(お前の音は、他のスカした音楽科連中の中の誰よりも、人の心に響く音なんだって)
そう、教えてやれたらいい。
そんなことを考えながら土浦は、夕暮れの空を歩く。
明日には、運命の悪戯が。
土浦の心を震わせた、音の主の手によって。
土浦をもう一度、ピアノへと導いていく。
そんな来るべき未来を、知る由もなく。
あとがきという名の言い訳
ちょっと意外性を狙った、まだ出逢ってすらいない、土日話。
コンクール、興味なさそうな振りして、案外気になってたんじゃないかな。


