大切なものは目に見えない

土浦→←日野

 彼女が自分へと与えてくれたものは。
 形としては残らない。
 そんな、儚くて。
 ある意味、永遠不滅のもの。




 登校時に、ピアノの音を交えて曲の最終チェックをしてみたいと、香穂子が呟いた。
 頭一つ半分背の低い香穂子を見下ろすと、土浦の表情を伺うように、上目遣いの香穂子が土浦の顔を凝視していた。
 その素直な、あからさまな表情が可笑しくて。
 ……一瞬陥落しそうになった邪念は振り払って。
 「いいぜ」と答えたら、香穂子は全開の笑顔で、ヴァイオリンケースを持っていない片手をばんざーいと叫んで上げた。
「ライバルに伴奏を頼むとは、図々しいやつだな」
「ライバルじゃないでしょ。同志でしょ」
 悪びれもなくそう言って、香穂子は屈託なく笑う。

 ……この曇りも、裏表もない笑顔に、随分と救われていることに気が付いたのは。
 そう遠くはない過去。


 香穂子に与えられたものを。
 教えられたことを。
 言葉で表すことは難しかった。
 確かに、彼女のひたすらに前だけを見据えている意志の強さには驚かされたし。
 全くの素人だと嘯きながら、他の選抜者達と堂々と渡り合っているその努力と負けん気の強さには脱帽だと思うし。
 ……ただ、ピアノから逃げ続け、背を向けていた土浦を、半ば強引にピアノへと向き直らせた影響力は、もう言うまでもないことだし。

 過去に経験した様々なことを、今土浦は乗り越えようとしている。
 ピアノに触れることも、人前で演奏することも、少し前の自分がどうしてあそこまで拒んでいたのかと不思議に思えるくらいに、抵抗がない。
 だけど、この隣を歩く少女に出逢わなければ。
 彼女に与えられたものを、土浦が受け取ることがなければ。

 おそらくは、土浦には訪れるはずのない変化だった。


 もう、勘違いでも馬鹿な思い込みでもないのだと分かる。
 目の前でヴァイオリンを弾く少女が、土浦にとって何よりも大切なものだ。
 だけど、目の前にある、日野香穂子という『カタチ』そのものが。
 大切なものなのではないと、土浦は思う。


 少しだけ細過ぎる身体と、赤味がかった、毛先が跳ねる、癖の強い髪。真直ぐに前を見る、意志の強い大きな目。
 彼女の見た目で、印象に残るのは僅かな部品だけで。
 特出したものがあるわけじゃない。道行く誰もが振り返るというほどの、絶世の美女などではない。
 だけど、例えば香穂子が今以上に誰の目にも止まらない、平凡すら下回ってしまうような姿形だとしたって。
 香穂子が、香穂子である限り。
 彼女は、土浦にとっての大切なものになってしまうのだろうと。
 ……そんなふうに思うのだ。


「視線が痛いですよ-、土浦くん」
 放課後の練習室。
 朝の約束通りに、彼女のヴァイオリンの旋律を追いかけながら、少しだけ、土浦の時間は思考の中に沈んでいた。
 それを元に戻したのが香穂子。至近距離から土浦の顔を覗き込み、そんな言葉を呟いて、笑った。
「何? 何か変なとこある? ……6限目、生物の授業眠かったから、机の跡でもついてんのかなあ」
 土浦の視線の意味に全く気付かない香穂子は、呑気にそんな事を呟きながら、ピアノの側から離れ、練習室を横切りながら片手の甲で頬を拭う。
「……馬鹿、寝るなよ」
 冗談混じりに叱って、土浦はピアノ用の小さな椅子から立ち上がる。大きなストライド、数歩で香穂子へと追い付いた。驚いたように足を止めて土浦を仰いだ香穂子の頬に。
 彼女の片手越しに、ゆっくりと触れる。

 自分とは違う性の生き物。
 触れた場所はどこもかしこも柔らかく、暖かい。

 迂闊に触れれば壊れそうなくらいに。
 脆くて儚い、大切なもの。

「土浦く」
「……跡なんてねーよ!」
「……痛っ!」
 口を開こうとした香穂子の言葉を遮るように、一言叫んで土浦が香穂子の額を指先で弾く。大して力を込めたつもりはないのに、大仰に香穂子は顔をしかめ、片手で額を押さえた。
「つーか、跡が付くほど豪快に寝てんじゃねえ。先生に目、つけられるぞ」
「今はいいんだよ-。学内コンクールに出てるから疲れてるんだろって、大目に見てもらえるし」
「そりゃ、コンクール期間限定じゃねえか」

 何気なく呟いた土浦の言葉に、香穂子と土浦の動きが同時に止まる。
 そう、コンクールは期間がある。
 もうすぐ終わってしまう。
 ……そうしたら、どうなるのだろう。
 今、この瞬間。
 誰にも邪魔をされたくない、これほどまでに心地のいい時間は。

(……ああ、だから)
 土浦は、心の中で嘆息した。

 彼女が土浦に与えてくれる、大切なものは。
 彼女がそこに形作って存在しなければ、生まれはしないものだけれど。
 触れることも、目で見ることも出来ないものばかりだから。
 心の中にしか、残せないものだから。

 余計に欲しくなる。
 必要だと思ってしまう。

 コンクールが終わっても。その後も、ずっと。

「香穂、……あのさ」
「……うん」
 話し掛けると、少しだけ沈んだ声の香穂子が小さく頷いた。
「コンクールが終わったらさ……話したいことが、ある」
 今、約束を取り付けるのは。
 時間が経って、その日が近付けば近付くほど。
 本当は酷く臆病な自分は、逃げたがるかもしれないから。
「……うん」
 香穂子はもう一度、頷いて。
 それから、少しだけ頬を赤く染めて。
 強い意志のある眼差で、真直ぐに土浦を射抜いた。
「私も、話したいことがあるから。……それ、聞いても。絶対に、引かないでよね」

 赤く染まる頬に。
 わざと強く押し付けるような強がりの口調に。

 ……もしかしたらって。
 そんなふうに。

「……引かねえよ」

 コンクールが終わって。
 互いが互いに向けて発する言葉は同じだって。
 そう、信じたい。
 ……期待をしたい。

 そんな不確定の心は、どこか心の隅の方で、相反して確信めいた身分不相応の思いだって抱いている。

 勇気を出して、この形のない想いを、『言葉』という形に変えて、伝える時に。
 いつも自分にとって必要な、目には見えない大切な気持ちを生み出し続けてくれる目の前の存在は。

 永遠に、この手の中に掴めるものなのかもしれないと。




あとがきという名の言い訳 

友人・兄貴分の土浦は非常に書きやすいんですが、カップリングとしての土浦は2番目に書きにくいですね。(1番は実は火原)
土浦は案外本心を見せたがらない人なんで、余計に書きにくいのかもしれないなあ。

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