息を切らせて

志水×日野

 コートを持って来なかったことを、志水はほんの数秒間後悔した。

 小春日和の森の広場。陽射しは優しく降り注いで、気持ちのいい午後だと思うのに、意外に人の姿が乏しかったのは、少しばかり、11月の風が冷たく肌を刺すからだ。
 閉ざされた窓の向こうに見える穏やかな快晴の景色は、とても魅力的に思えたから、読みたかった本を図書館で調達して、放課後の、日が暮れるまでの短い時間を、柔らかな陽射しの中で堪能しようと考えたのに。

 志水は教室に、荷物と共に置きっぱなしにしているコートのことを思った。
 あれを持ってくれば良かった。
 少しだけ温もりを借りて、そうしてこの場所で好きな本を読むのは、きっと素敵なことだっただろうに。
 だが、その悩みは数秒で消えた。
 風が冷たいと言っても、決して我慢が出来ないほど寒いわけじゃない。
 風は途切れなく吹き続けたりはしないし、止まってしまえば快晴の秋空から降り注ぐ陽光は、優しくて暖かだった。

 一人納得して、文字を追うのに楽だから、上半身だけ木陰に隠れる場所に両足を投げ出して、ぺたりと座り込む。一文字一文字をじっくりと追って、脳に取り込んで、意味を理解して。それを繰り返しているうちに、今度は耐え難いほどの睡魔が襲って来た。
(ああ……そうか。昨日も夢中でチェロを弾いていたから)
 突然襲って来た睡魔の原因は、理解ができる。
 だが、理由が分かったからといって、それに抗えるほどの意志の強さはない。
(……眠、い……?)
 傍らに分厚い本を置き、芝生の上に横たわって、志水は数回瞬きをする。そして……開けようとしても、瞼が持ち上がらなくなった。
(……このままだと、風邪を……引いて……しま、う。……か、な……?)
 遠のく意識の中、ぼんやりとそんなことを考える。

 風邪を引いてしまったら、学校を休まなきゃいけないし。
 ……そのことは別にいいけど、チェロが弾けなくなるし。
 何よりも、あの人に会えなくなる。……だから。

 いけないことだと知っているのに、浅い眠りの心地よさに耐えられない。
 ……まあ、いいか。と。
 何度か開こうとした瞼の運動を諦めて、深い息と共にしっかりと瞼を閉じた時だった。

「し、……志水、くん!」
 突然側で聴こえた、聞き覚えのある大きな声。
 そして、同時に自分の身体に覆い被さるそれなりの重量のもの。
 乾いた音を立てて、自分の身体の上に広がったそれは、ひどく馴染んだ香りがして。
 志水はぱちりと目を開ける。
 視線だけを心持ち下方に下ろしてみると、見覚えのある焦茶色のダッフルコート。
 ……志水が登下校時に着ているもの。
 そして、寝転がった志水の傍らには。
「……香穂、先輩?」
 芝生の上に、両膝を揃えて座り込んで。
 両手を地面について、肩で息をしている香穂子の姿。
 志水が教室に置き去りにして来たコートを、どうやら香穂子が運んで来たようだ。
「これ、僕の。……ですよね?……どうして……」
「練習室、こっそり予約、しておいたから、一緒に合奏でも、しようかなと、……思って。……元々、今日は、校門前で待ち合わせって、ことにしておいたからって思って、教室まで迎えに行ってみたら、いないんだもん。志水くん」
 まだ乱れた呼吸のまま、不自然に言葉を途切らせながら、香穂子が説明する。
「クラスの子に、出てったけどコートあるから校内にいるはずって教えてもらったから、志水くんが行きそうな場所探して、そして、図書室行って。志水くん見知ってる子に、『外に出てった』って聞いて」
 言い切って、香穂子は顔を上げる。
 汗だくの頬を片手の甲で拭いながら、笑った。
「コートないのに、風邪引くよーって思ったから、届けてあげなきゃと思って、いろんなとこ走り回ったんだよ。そしたら、案の定こんなとこで寝てるし。急いで暖めなきゃって慌てて、思わず放り投げちゃったよ。コート」
 悪戯を告白するように、肩をすくめた香穂子に、志水は一つぱちりと瞬きをする。
 少し前の、香穂子の言葉が、まだ残っている。
「……走って、探してくれたんですか?……僕を」
 呆然として尋ねると、香穂子は不思議そうに首を傾げ、大きく頷いた。
「うん。……だって、早く見つけて、コート渡してあげないと、もしかしたら志水くんが風邪引いちゃうかもしれないでしょ? 私、そんなの嫌だもん」

 柔らかい陽射しの、少しだけ風の冷たい、小春日和の午後。
 風邪を引くかもしれないと、ほんの少しだけ頭の隅を掠めたりもしたけれど。身体が弱いわけじゃないし、特に寒さを感じたわけじゃない。多少うたた寝をしてみたところで、きっと、そんなに重大なことにはならないと思うのに。
 それでも、微かな寒さを凌ぐ為の、一着のコートを。
 こんな自分に届ける為に。
 息を切らし、自分一人を探してくれる。

 決して、香穂子にとって、何の利益があるわけでもないであろうに。
 些細な理由のために、懸命にこの自分を探してくれる。

 『その』、喜び。


「香穂、先輩」
 芝生の上に肩肘を付いて、志水はゆっくりと身を起こす。

 嬉しくて。
 多分、今自分達に降り注ぐ、柔らかく暖かい陽射しより。
 この気持ちが何よりも、自分という存在を、暖めてくれるような気がして。

 分け与えたいと思った。
 息を切らせて、走り回って。
 そうして、自分を見つけてくれた、この人に。

「志水くん……?」

 不思議そうに志水を見つめながら、汗に濡れた額に貼り付く、一筋の髪を指先で摘んだ香穂子を。
 志水は、両手でその両腕を取って。
 手繰り寄せて。


 彼女が届けてくれたコートごと、自分の両腕の中に、優しく、優しく抱き締めた。




あとがきという名の言い訳 

渡瀬の地元があまりに暑いので『普通11月って寒いんじゃ……?』と首を傾げながら書いていたお題です(笑)
下手したら11月に半袖で過ごせてしまう……(汗)
水日で甘めの話を書く時には、たいてい志水が優位ですね(笑)だって、この子はある意味最強だと思うわけですよ……。

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