小さな幸福の積み重ね。
香穂子と知り合って、好きになって、好きになってもらって。
そうして彼女と『恋人同士』を始めた自分が、一番『変わった』と実感しているのも、おそらくは他でもない自分自身なのだろうと思う。
だって、音楽だけで心が満たされていた頃は。
世界の何を動かす事もない、小さな小さな希望が叶えられると。
こんなに幸せになるんだって、知らなかったから。
「でも、単にそれって、これまでの志水くんが無欲だったってことの現れじゃないのかなあ」
隣を歩く香穂子が、志水の言葉を聞いて、そんなふうに結論付けた。そうでしょうか、と志水が首を傾げると、うん、と大きく頷く。
「だって、そういうの聞いていると、私、自分が凄く欲深いって思っちゃうよ。欲しいものとかしたいこととか、一杯だもん。そりゃ一つ一つは小さな希望だけど、だからこそ、余計にそれが叶ったって、特に幸せだーなんて、実感しないから」
むーっと眉間に皺を寄せて言った香穂子に、志水はにこにこと笑う。
何でだろう。
特別な言葉を話しているわけじゃないのに。
香穂子の声を聞いていると、幸せな気持ちになる。
……これも、降り積もる幸せの欠片?
「……そうなってくると、志水くんの希望も気になってくるなあ」
顎に人指し指を当てて、空を睨みながら香穂子が呟いた。
「……僕のですか?」
「うん。志水くんが叶って、そして幸せになる望みって、どんなものなのか気になる!」
屈託なく笑って香穂子が頷く。
そうですね、と志水が前方の空間を見据える。
……いろいろあります。……いろいろ。
考えながら、てくてくと歩く志水の隣で、香穂子がわくわくしながらその答えを待っている。
ふと、何かを思い付いたようにぽん、と両手を打って、志水が立ち止まった。
「……ああ、こういうの、どうでしょう?」
「え、何?」
つられて立ち止まって、香穂子が幾分目線の高い志水の顔を仰ぎ見る。香穂子の視線を受けて、志水はにっこりと全開で笑う。
「香穂先輩にも、協力して、もらわないと。叶えられない願いです」
「わ、私?……私、協力出来るかなあ」
途端、香穂子は不安げに表情を曇らせる。
くるくると変わる表情。
区切られた世界の中で、止まっていた志水の時間を動かした彩り。
「出来ますよ。簡単です」
そして、志水はふと香穂子に身体を寄せて。
首を傾けて、彼女の耳元でそっと囁いてみる。
「……『先輩』なしで。名前で呼んでもいいですか?」
弾かれたように、香穂子が一歩後ずさって。
片手で志水の呼吸が触れた耳元を押さえる。
真っ赤になって呆然と志水を見ている香穂子に、少しだけ哀しげな表情で。
首を傾げてみる。
「……駄目ですか?」
「……駄目じゃ、ないけど」
あの、でも。と足下に視線を落として戸惑う香穂子を体よく無視。
香穂子が広げた一歩分の距離を、すぐに一歩踏み出して、埋めてしまう。
「……香穂」
低い声で呟いてみると、一瞬俯いていた香穂子が目を見開いて。
胸の前で指を組んで、身体を強張らせ、ぎゅっと目をつぶるのが分かった。
だから、もう一歩、距離を埋めて。
二人の距離を、ゼロにする。
「香穂」
もう一度呼ぶと、腕の中で香穂子の身体が微かに震える。やがて、腕の中の香穂子の強張りが解けて。
ゆっくりと、優しい腕が志水の背中に回る。
『先輩』の肩書きを取り払ってみても。
後に生まれてしまった一年分の時間が、取り戻せるわけじゃないけど。
それでも、たったそれだけのことであっても。
確かに、お互いの心の距離は縮まって。
幸福が、降り積もる。
「貴方のおかげで、こんなに幸せな事ばかり、この先の未来に増えていく気がします」
「うん。……私も」
そう思うよ、と囁いた香穂子の声が、泣きたいくらいに優しかったから。
彼女の細い身体を抱き締める腕に、力を込めてみる。
この幸せはいつまで続くのだろう。
どれくらい降り積もれば、もう何もいらないと思えるくらいに満たされるのだろう。
今、自分が立つ場所から。
この先にあるはずのものたちは、見えてなんて来ないけど。
それでも、二人で一緒にいれば。
些細な事に幸福を感じて。
それを積み重ねていく事で。
いつか訪れる、死の瞬間には。
こんな幸せな人生はなかったって。
笑って逝けるように。
……そんなささやかで、途方もない希望をも。
抱いてみたりもするんだ。
あとがきという名の言い訳
渡瀬は志水は黒い方が好きなんですよ…(突然ぶっちゃけ)
腹の中で物凄く黒い事を考えてくれてたらいい。計算でなく、天然で!(笑)
天然黒志水で、香穂子を強気で振り回してくれてたらいいとか考えている今日この頃。


