呆れたように間延びした、柔らかい声が志水の名前を呼んだ。
軽く瞬きをして、その声の主の顔を見つめれば、わずかに顔をしかめた香穂子が小さな溜息をついた。
「また、心ここにあらず、だったね」
「……そう……ですか?」
きょとんとして答える志水に、香穂子はもう一つ溜息を落とす。
作曲の課題があるのだと、放課後、帰る為に待ち合わせていた校門前で逢った時に志水は言った。ほんの数秒の小節、簡単な作曲をするだけなのだが、いろいろと音楽が浮かんでまとまらないと、いつものあの幸せそうな表情で、ふわふわとした口調で。
音楽に心酔し切っている志水のその純粋さが香穂子にとっても彼の一番愛おしい部分だが、ここまで心を持って行かれてくれると、『彼女』の立場としては少し悔しいものがある。溜息の一つや二つ、漏らしてみたくもなるというものだ。
「……もういいや。志水くん、今日は送ってくれなくていいよ。ここまででいいから、お家に帰って、それからゆっくり課題、済ませるんだよ。でないと、ぼーっとしたまんま歩いてたんじゃ、危ないからね」
諦めたように言い聞かせ、香穂子はくるりと志水に背を向ける。
ちょうど場所は交差点。……付き合い始める前、まだ志水に家まで送ってもらっていなかった頃、一緒に帰ることになった時に別れていた場所だ。
迷わない足取りで、信号が点滅し始めた横断歩道を渡り切る。……何となく、背中に志水の視線を感じるような気がしたけれど、香穂子はわざと振り向かない。
別に怒っていたり、拗ねていたりするわけじゃないけど。
少しだけ、悔しい思いはしたのだから、これくらいの意趣返しがあったっていい。
車道を挟んだ道路の向こう側。青信号になって、動き出した車の流れが、路地に入り込む香穂子の姿を遮って。
香穂子の気配が全くなくなってしまって、ようやくそこで志水は一つ瞬きをした。
たった今、夢から覚めたように。
「香穂、先輩……」
ぽつりと呟いた言葉は、交差点の喧噪にまぎれて、少しも他の誰かに届かなくて。
焦燥は、一瞬遅れた後に来た。自分が酷く、何かを間違えたような気がした。
「香穂先輩……!」
慌てて、大きなチェロを持ち直して。
変わらない赤信号と、横断歩道の白のストライプを、苛立たしく交互に見て。
走り出したいのに、環境がそれを許さない、その矛盾に。
これまで生きて来た中で、もしかしたら初めて感じるかもしれない、言葉に出来ない焦りに志水は満たされる。
何度彼女の名前を呼んでみても。
あの心地いい声が、返らなくて。
無意識とはいえ、自分は大切なあの人に、こんな想いをさせてしまったんだ。
こんなに、寂しくて。
虚しい想いを。
香穂子に出逢うまでは。
志水の心を占めるのは、ただ、素晴らしい音楽だけで。
世界の音楽を愛おしむだけでよかった。それが志水の生きる全てだった。
だけど今、志水が生きる世界には、香穂子がいてくれるから。
……それでも、どんなに願っても、同じ世界を香穂子が見ているわけではないのだから。
ちゃんと互いが互いに、別々の世界を持っていて。
そうして、繋がりたいと互いに手を伸ばして生きていることを、志水は理解しなければならない。
ただ自分の中の音楽にだけ向き合って生きていくことは、もう出来やしないのだということを。
慣れた香穂子の自宅の前に立って。
志水は乱れた呼吸を、ゆっくりと深呼吸をして整える。覚悟を決めて、指を伸ばして。
香穂子の家のインターフォンを押す。
同じパターンの機械音が数回室内に響いて、かちゃりと受話器を取り上げる音がした。
『……はい?』
声は、香穂子のものだった。
志水が、聞き間違えるはずのない、あの心地のいい声音。
「香穂、先輩。……僕」
『えっ、嘘! 志水くん!?』
驚いた香穂子の声が響いて、ぶつりとインターフォンの通話が切れる。家の中からぱたぱたと慌ただしい軽い足音が聞こえて、玄関に近付いて来て。
乱暴に、玄関のドアが大きく開いた。
そこには、まだ制服姿のままの、香穂子がいた。
「どうしたの? 何でこっち来ちゃったの? 課題、やんなきゃいけないんでしょう?」
矢継ぎ早に疑問を投げかける香穂子に。
志水は、そのまま地面に額を押し付けてしまいそうな勢いで、均整の取れた小柄な身体を折り曲げて、深々と頭を下げる。
「……ごめんなさい」
自分を取り巻く、様々の音楽。
香穂子に出逢って、何かが変わった自分でも、相変わらず、その周りにある音楽を愛おしむことは止められなくて。
それでもやはり、一人で音楽を愛していたあの頃とは、もう違うのだ。
志水は独りではないから。
香穂子が側にいてくれるから。
本当に、大切にするべきものを、間違えてはならない。
「いや、あの。志水くん? 別に私、怒ったりしてたわけじゃないんだけど!」
突然の志水の謝罪に慌てた香穂子は、頭を下げた志水をどうにか起こそうと、必死にその肩を掴んで、顔を上げさせようとする。だけど、志水の身体は香穂子の言うことなど全く聞かない。……こんな些細なことで、いつもは可愛いばかりの後輩が、どうしようもなく自分とは違う異性であることを痛感してしまう。
「……そりゃ、志水くんの中の一番が音楽だっていうのは、ちょっと悔しかったりもするんだけど。でもね、私、そういう志水くんだから、志水くんのこと」
そこまで言って、香穂子がはっと我に返って、思わず片手を自分の口元に当てて、無理矢理に言葉を押さえ込む。
流れで余計なことまで伝えてしまうところだった。
「……僕のこと?」
少しだけ身を起こし、志水が上目遣いに香穂子を見る。
それは反則でしょ、と香穂子が頬を染めて、思わず額を押さえた。
「……僕は」
ゆっくりと身を起こし、志水がチェロを抱えていない、空いている片手を伸ばす。香穂子の片手をそっと手にとって、繋ぐ。
「僕が、本当に大事にしなければいけないのは、先輩だと、そう思うから。……でも、僕、『誰か』を大切にするってことが、本当に初めてで。……上手く出来ないんです」
変わりたいと思う心があっても、身についたものは、簡単には消えてくれない。決して香穂子より音楽を優先したいわけじゃないのに、音楽にふと意識を持って行かれてしまう悪い癖を、なかなか改善することが出来ない。
「僕が、失敗したって思ったから。だから、勝手だけど、僕が早く先輩に、謝りたかったんです」
香穂子の手を握る指先に、ほんの僅かな力を込めて。
志水は、ふわりと微笑んだ。
「僕が聴きたい音楽は。……僕の中にある音楽を導き出してくれるものは。いつだって、僕に話しかけてくれる先輩の声だったのに」
じいっと志水の笑顔を見つめていた香穂子がぱちりと一つ瞬いて。
少しだけ、恥ずかしそうに俯く香穂子が、小さな声で呟いた。
「……志水くんの中で、一番は、……私?」
「……はい」
香穂子の可愛らしい問に、迷いなく志水が答える。
だから、香穂子も笑って言ってみる。喧嘩したわけじゃないけど、と前置きして。
「じゃあ、もうこれで仲直りだね」
だってもう、香穂子の中には怒る理由も、拗ねる理由も存在しない。
そうしたら、志水はもう一度満面の笑顔で。
「はい」
と、嬉しそうに頷いた。
誰かを大切にすると言うことは、まだまだ上手くない自分だけど。
それでも、間違えて、怒られて、傷付けて。
喧嘩と呼べるのか呼べないのかも分からない、互いが互いを想う故の大なり小なりの衝突を、繰り返して積み重ねて、そのたびに修復して。
そうして、ゆっくりと学んでいくのだろう。
一番自分に相応しい、『誰かを大切にする』ということの形を。
あとがきという名の言い訳
志水は書きにくいお題が混じってるなあと思ってたんですが、それがまさにこのお題。だってうちの香穂子と志水ってケンカが成立しない気がする……(--;)
それでもどうしても喧嘩するって考えていくと、香穂子が一方的に拗ねるか怒るかするかな、と行き当たってこういう話に。ええと。……すみません。


