例えその言葉を放つ相手が、素顔の柚木であったとしても。
「柚木先輩にとって、『これだけは譲れない!』……なんて言えるもの、あるんですか?」
人の気配のない屋上。ベンチの上に少しだけ距離をおいて、柚木と香穂子は並んで腰掛けている。
付き合い始めた今でも変わらない、香穂子が少しだけ柚木との間に置く距離。照れや遠慮から生まれる産物というよりは、柚木に良いように遊ばれないようにという、香穂子の警戒の証。
どうせ少しだけ手を伸ばせば容易く届いてしまうくらいの距離なのに、頑にその距離感を守ろうとする香穂子の姿が、柚木にはひどく面白い存在に思えてしまう。
そんな二人の間に横たわる空間の向こうから、香穂子が投げかけた問。またこれまでの会話に全く脈絡のない、漠然とした問だから、それも奔放な彼女らしさの現れのようで、柚木にとっては好ましい。
「……何? 俺が執着するものを知りたいわけ?」
低い声で尋ねると、少しだけ怯えたように身を竦ませながら、香穂子が「そういうわけじゃないですけど……」と小さな声で呟いた。
「柚木先輩って、物凄く黒い本性に、物凄く頑丈な仮面つけて、優等生演じてるわけですけど」
「……それは、喧嘩を売っているのかな?」
何なら買おうか?と完璧な上っ面の笑顔で首を傾げた柚木に、香穂子が真顔で首を横に振った。
「いや、だから。そんなふうに完璧取り繕って柚木先輩が優等生演じるのは、何か護りたいものがあるからなのかなって」
「……?」
「だって、疲れるでしょう? 人間って、絶対どこかに欠点があって、それがあって当たり前の生き物なのに、柚木先輩はそれを完璧に隠しちゃうんだもの」
少しだけ顔をしかめて、香穂子が空を見据える。
真直ぐに空の一点を見つめる香穂子の横顔を、まるで自分の知らない生き物を見るような眼で、柚木は見つめる。
優等生の仮面は、煩わしいものから逃げる為に、自分が幼い頃から育て上げて来たもの。
厳格な祖母の逆鱗に触れない為に。
望んだものを捨てる虚しさを、二度と味わわない為に。
叶わない願いを胸に抱かない為に、柚木自らが選んで、被り続けて来たもの。
確かに、それは自分の為だった。
でも、何かを護る為などではなかった。
むしろ、何もかもがどうでもよかったから。
叶うわけがない、届くはずがないと最初から諦めていたから。
だからこそ、誰にも見抜かれず、維持することの出来た上っ面だった。
本当の自分を見せることで、好かれたり嫌われたり。
そんなふうに、複雑な人間関係を築くことよりも。
何の文句のつけどころもない優等生でいることで、誰から見ても変化のない、同じ評価を受けることで。
楽に過ごせる生き方を、怠惰の心から選んだだけなのだ。
「……護りたいものなんて、ないよ」
ぽつりと呟くと、香穂子が驚いたような顔で、柚木の方を振り返る。
哀れむでも悼むでもなく。
ただ、真直ぐに曇りなく自分を映す香穂子の大きな目に。
今口にしたのが、本心から少しだけずれている言葉だったのだと、柚木は気付く。
だから、もう一度。
正しい思いを言葉にする。
「優等生でいることで、護りたいものなんてないよ。ただ、本心を隠すことの方が、俺にとって都合が良かっただけだ。……煩わしい干渉を受けずに済むからな」
優等生でいることで。
教師でも友人でも、先輩後輩でも。
同じ距離感を保つことが、楽だっただけだ。
誰かとの距離が縮まってしまうのなら。
叶わないかもしれない願いを、いつか抱いてしまうことを。
それに、傷付かなければいけない日が来ることを、予感していたから。
「……柚木先輩には、ないんですか? ……護りたいもの。失くしたくない、大切なもの」
真直ぐに柚木を捕らえたままの香穂子の顔が、泣き出しそうに歪む。
他人のことに、ここまで心を傷めずともいいだろうにと、彼女の他人の痛みを受け入れてしまう感受性の強さに、柚木は苦笑する。
「……護りたいもの。失くしたくない。……大切なもの」
香穂子の言葉を復唱し、柚木は言葉を切った。
指先を伸ばすと、香穂子が警戒して不自然に取った柚木との距離は、容易く埋まる。
それは、あまり近付き過ぎるのは怖いのに、どうしても手の届かない場所には離れたくはないという、素直な彼女の心。
「……今は、あるよ」
綺麗な指先が、香穂子の頬に触れる。
そこにかかる、赤味がかった長い髪をかきあげる柚木の指先は。
普段の柚木からは想像も出来ないくらいに、ただ優しかった。
「それ……何ですか?」
まるで魅入られたように。
どこか呆然とした様子で、柚木を見つめる香穂子が、静かに尋ねた。
香穂子の髪を梳いていた柚木の指は、またゆっくりと動いて、香穂子の柔らかな髪に埋まり、後頭部を支えるようにして止まる。
「……当ててみたら?」
からかう口調はいつもと変わりないのに、香穂子を見つめる視線だけが、熱くて。
……深い。
「そして、代わりに教えてくれるかな。お前が、大切に思うもの。……その答えが俺と同じものなら。……御褒美をあげるよ」
ぱちりと一つ瞬きをして。
香穂子は、操られるように、その唇を開く。
「私の、大切なもの」
小さな声で、香穂子がその答えを呟いた。
屋上の強い風に邪魔されながらも、至近距離で香穂子の言葉をきちんと聞き取って。
柚木が一瞬、甘く笑う。
「……あの。柚木せ」
名を呼ぶ瞬間に、塞がれる唇。
微かに離れ、そしてまた触れ合うたびに、より甘く、そして深くなる。
長い時間、そうして触れ合って。
やがて、唇が離れて、とても近い場所にある端正な柚木の顔を、香穂子の潤んだ瞳が映す。
「……せんぱい」
「良く出来ました」
失くしたくないもの。
優等生ではない、人を蔑んだり、羨んだりする醜さを。
そして、時折どうしても弱く逃げ出してしまう、そんな腑甲斐無さを曝け出してでも。
選びたいもの。
手にしたいもの。
……それは。
「俺の答えも、お前だよ。……香穂子」
たとえ、これまで積み上げて作り上げて来たものを、全て投げ打ってでも。
たとえ、どれだけ柚木自身の都合で、彼女をひどく傷つけることになっても。
決して、離せない。
失えない。
みっともなく足掻いて、縋り付いて繋ぎ止める。
生まれて初めて、そんなふうに執着する。
何よりも大切なもの。
あとがきという名の言い訳
木日で甘めの話って初めて書いたかも。渡瀬の中の柚木像というのが如実に出てしまった気がします。
家の為、祖母の為というよりは、逆らったり、反したりして生じる物事の煩わしさが嫌で、文句のつけどころを無くすことで過干渉も逃れようとしたというのか。
それは傷付きたくないっつー、ヘタレの証(結局ヘタレなんだ……)


