背後で素頓狂な声が上がる。その声は金澤にとって、ここ数カ月で急激に馴染んだ心地のいい声だったので、すぐに声を発した人物は察しがついた。肩越しに振り返る。
「意外そうな声出すなよ」
「だって、意外ですもん」
苦笑して言った金澤に、小脇にスケッチブックを抱えた日野香穂子が、小さく首を傾げて答えた。
普通科の制服を身に纏う生徒が、美術の授業のスケッチ用にスケッチブックを抱えて歩く姿は決して珍しいものではないが、この目の前の女生徒が実際に『そう』している姿を見ると、やはりあのヴァイオリンの音色を知っているだけに、新鮮さと同時に奇妙な違和感を感じてしまう。
「先生、何でこんなところにいるんですか?」
真顔で尋ねた香穂子に、金澤は呆れたように溜息をつく。
「おいおい、俺の仕事を知らんわけじゃないだろ。元々俺は普通科の音楽担当教師なんだぞ。コンクールの責任者なんかやらされたのも、普通科がメインだと他の音楽科の先生達に比べて授業数が少ないからだしな」
「……そうかなあ?」
金澤の最後の言葉に、香穂子がちょっと眉根を寄せて首を傾げる。
確かに、音楽科の専任教師に比べて受け持ちの授業数が少ないとか、コンクールの裏事情を知っているからとか、金澤が金澤故に選ばれた理由があるのだろうけど。
(それだけじゃないんじゃないのかな)
面倒だという理由に結論付ける、不必要に生徒の中に介入しようとしない公正な態度とか。
本人が言うほどにはいい加減じゃないであろう、音楽の質の高い知識とか。
別の理由は、ちゃんとあるように香穂子には思えるのだけれど。
「そんなことより、お前さんこそ何で一人教室に戻って来たんだ?」
「あ、お弁当取りに」
笑顔で香穂子が答え、スケッチブックを抱える手とは反対の手首に引っ掛けた小さな弁当袋を、金澤に掲げてみせた。
普通科の芸術の授業は週1回、2時間枠で設けられていて、音楽・美術・書道の3教科から1科目を選択する。美術選択の香穂子は、校舎内の好きな場所でスケッチをしていたのだが、もうすぐ4限目の授業が終わり、昼食になることに気がついて、選択授業中の為空っぽになっている自分の教室に、弁当を取りに来たのだ。
「チャイムが鳴ったら各自解散なんで、そのまま御飯食べる場所探そうかと思って」
金澤が普通科の音楽担当だというのを知って、密かに音楽を選択しなかったことを悔やんだ香穂子だったが、美術担当教師の、金澤とはまた違う大雑把さはありがたいと、たった今、心の底からそう思っている。
普通科の音楽担当教師といえど、その音楽の授業そのものは週1回。もちろん音楽選択者ではない香穂子が、こうして普段自分が生活する普通科校舎内で金澤に遭遇する可能性はほとんどゼロに近い。
それでも、躊躇いなく授業を早めに切り上げてしまう金澤の大雑把さと、課題提出と期末考査の美術史の勉強さえしておけば生徒の動向を気にしない美術教師の大雑把さがあってこそ。
その実現のパーセンテージはゼロに近いささやかな幸運を、手に出来るのだから。
「……それは俺にも好都合」
にやりと笑い、金澤は自分が握っていたレポートらしい紙の束を、突然香穂子の方へ放り投げた。咄嗟に小脇のスケッチブックと手首に引っ掛けている弁当を気にしながら両手でそれを受け止めた香穂子に、びしりと指先を突き付けた。
「それ、音楽準備室まで運んでくれ」
「えええええっ!?」
不満そうに抗議の声を上げた香穂子に、金澤はなだめるように片手を上げ、ぽんぽん、と大きな掌を軽く香穂子の頭上で弾ませた。
「食後の珈琲と茶菓子くらい恵んでやるから、手伝ってくれや」
「……でも」
まだ納得いかない、という表情で、上目遣いに金澤を見上げた香穂子に、ふと金澤は微笑む。
思わず香穂子は、動きを止めて、そんな金澤の眼をじっと見つめる。
信じられないものを見た、という表情で。
……それは、金澤が校内では決して見せることがないと思っていた。
香穂子だけが知っている、香穂子のためだけの笑顔だったから。
呆然と金澤を見上げる香穂子の耳元に、その長身を折り曲げるようにして身を屈めた金澤が、低い声で囁いた。
「……いい理由だろう? 音楽準備室で、一緒に昼飯、食う為のさ」
思わず香穂子は、片手を上げて囁きの呼吸が触れた頬を押さえた。拍子に小脇に挟んでいたスケッチブックが支えをなくし、派手な音を立てて廊下に落ちる。
だけど、指先で触れる頬が熱いのが分かるから。
そんな小さなことに構っていられない。
「レポートばらまかれちゃ叶わんからな。こっちは俺が持っていくか」
金澤が香穂子の足元のスケッチブックを拾い上げ、肩の上で軽く弾ませる。進行方向へサンダルを引っ掛けた足を踏み出し、柔らかく笑う、その残像を残して香穂子に背を向ける。
「よし、じゃあ行くか。……日野」
預かったレポートは、ここで逃げても後々届けに行かなきゃいけないとか。
連れていかれたスケッチブックは、提出するべきものだから、取りかえさなきゃいけないとか。
今、歩いていく金澤の背中を追う大義名分は、いっぱいあるんだけど。
そんなことより。
……そんなことよりも。
一番、嬉しいのは。
弾む足取りで、金澤の背中を追いかけて。
肩を並べて音楽準備室へ向かいながら、先程の笑顔がなかったかのような涼しい顔をしている大好きな教師の横顔を香穂子は仰ぎ見る。
「先生、珈琲70円じゃなくて、90円の紙コップにして下さいね。ちょっと香りがいい方」
「贅沢言うな-。俺今月ピンチなんだぞ」
「それこそ20円くらい、ケチケチしないで下さいよ。社会人でしょ」
他愛無い会話ですら、こんなにも楽しい。
だからこそ。
何よりも嬉しいのは。
きっと、このささやかで類い稀な幸運を。
香穂子が、他の何ものにも変え難い宝物だと思うように。
金澤も、この小さな小さな幸運を。
香穂子と同じ強さで、喜んでくれているだろうということ。
あとがきという名の言い訳
このお題の内容は「一緒に食べよう」というお題と繋がっておりますが、それぞれ個別に読んでもらっても問題はありません。
香穂子や金澤の学校生活の細かい部分は、渡瀬の実体験を参考にしていたりします。


