この手を伸ばせば、届くだろうか

金澤→←日野

 昼休みの普通科校舎の廊下を、金澤紘人は多少下降気味の心情で、安いサンダルが冷たい床をぺたりと踏む音を響かせて歩いていた。
 休み時間といえど、昼休みという長い休息時間であれば、余程5限に間に合わない課題でも持っていない限り、生徒達は好き勝手に各々の好みの場所へ赴いている。
 音楽科というある意味特殊なコースがあるせいか、この学校の設備は至れり尽せりだ。どちらかといえば都会的なこの地域で、広大な、自然に囲まれた広場や講堂なんていうものを持っている高校は珍しいと言えるだろう。
(それが妖精の加護だってんだからおかしな話だよな……)
 ぼさぼさに伸び切って、無造作にひとくくりにした髪を片手でがしがしと掻き混ぜて、金澤は重い溜息を付く。
 思わず溜息を付いたのは、別に妖精云々の自分の思考に呆れたわけではない。もう見ることはないが、金澤はこの学院にそんな人外の生き物がいることを『知って』いる。馬鹿馬鹿しいおとぎ話のようであっても、一度自分の目で確かめたものであるならば、それは紛れもない現実だ。
 今、金澤の溜息を生み出したのは、妖精のくだりで別の人物の顔が金澤の脳裏に導き出されたからだ。
 そして、その人物は今から金澤が会いにいかなければならない、金澤の心を下降気味にさせる原因でもある。

 普通科2年、日野香穂子。
 実力どころか経験すら全くない音楽素人の彼女が、金澤が担当する学内音楽コンクールに参加することになったのは、その件の妖精の導きがあったからだ。
 日野の参加を知った時は、退屈なだけに思えたコンクールに変わった趣向を凝らしてくれると、遠い記憶の中にある、朧げな妖精の姿を思い浮かべ、苦笑いしたものだが。

(……笑えないよなあ)
 もう一度、金澤は溜息を付く。

 日野香穂子はひどく前向きな少女だった。
 突然参加させられたコンクールに最初こそ戸惑う様子は見せたものの、セレクションをこなしていくうちにみるみるヴァイオリンの腕を上げ、そしてコンクールそのものを楽しんでいる。
 学院内、休日の学校周辺で楽しそうにヴァイオリンを弾く日野の演奏姿は、妖精の加護を受けて、誰でも弾けるという魔法のヴァイオリンを失った後でも変わることなく、今ではもう、音楽科の生徒だといってみても、誰も疑いはしないだろうある種の貫禄と、自信とを身に付けたように見える。
 生徒の成長。それは、例えやる気のないように見える金澤であっても、単純に喜ぶべき現象だったのだろう。
 ただ、一つだけ誤算があった。

 日野香穂子の影響力は、尋常でないほどに強過ぎたのだ。

 何かを諦め切っていた。
 煩わしいことを面倒がっていた金澤ですら。
 前を向かざるを得ないくらいに。

「笑えない……」
 誰もいない廊下で、ふと足を止めて、金澤はぽつりと呟く。

 まさか、こんな気持ちがもう一度自分の中に生まれるなんて。
 ……あまりにも不釣り合いで、不具合過ぎて。
 明確に、心の中ですら言葉として形付けられないような思い。

「何が笑えないんですか?」
「うおっ!?」
 背後から穏やかな声が響いて、金澤はびくりと背中を震わせた。
 たった一言で、その声の持ち主が誰なのかが分かったが、その狼狽を悟らせないように片手で胸を押さえてゆっくりと振り返った。
「……お前さんか。繊細な音楽教師をびびらせるなよ」
「誰が繊細なんですか? どうせ、また他の先生に怒られそうなことをしてるんでしょう?」
 にこにこと笑顔で屈託なく話す日野香穂子の言動は、屈託がない分、遠慮もなかった。
「また歩き煙草してて怒られたとか」
「日常過ぎて、怒られるに足りん理由だなあ」
 軽口で返すのは、心の中の動揺を悟られない為に、彼女より長く生きている年数の分、金澤の身に付いた技術だ。
「最終セレクションの詳細のプリント、持って来てやったんだよ。土浦にも渡さなきゃならんのだがな」
「あ、じゃあ私探して来ましょうか? 土浦くん、大体お昼御飯買う為に、この時間はエントランスにいるはずだから」
 人指し指を自分に向けて、日野は朗らかに笑う。
 踵を返した日野の背中を何気なく見つめながら、突発的にわき上がる思い。

 土浦を、探しに。

 その言葉は、金澤が努めて見ないように、奥深くに沈めている思いを塞いだものを、簡単に焼いてしまう。
 一瞬、頭の中は真っ白になった。

「ちょっと、待て……日野!」
 次の行動は無意識だった。
 金澤は踵を返し、エントランスに走り出そうとした日野の、細い腕を。
 咄嗟に、捕まえてしまった。

 ふと我に返って、真っ先に実感したのが、金澤の片手の中に簡単に収まった、香穂子の左の二の腕。
 柔らかくて細くて。少し力を込めると簡単に折れてしまいそうな儚さ。
 次に意識したのが、彼女が立つ距離と、自分が立っている場所の距離。

 手を伸ばせば簡単に届くくらいに。
 ひどく、近い距離。

「……金澤先生?」
 きょとんとした日野が、首を傾げて金澤の名前を呼んだ。
 他の生徒のように気安く「金やん」と愛称で呼ぶことなく、きちんと一音一音を発音するこの女生徒の呼び方は、とても心地のいいものだった。
「どうかしましたか?」
 少しだけ心配そうに眉根を寄せて金澤を覗き込んだ日野の視線に、金澤は今度こそ完全に我に返った。これ以上彼女に不審がられることがないように、努めて何でもないことのように微笑して、掴んでいた彼女の腕を離した自分自身を、これ以上にないくらい誉め讃えたかった。
「わざわざ呼びにいかなくても。お前が渡しておいてくれりゃいいんだよ」
 ぱさり、と微かな音を立てて、薄い紙面で金澤が日野の額を叩く。
 手をあげて、その二枚の紙面を受け取った日野が、顔をしかめた。
「うう、また先生手抜きだ」
「貴重な休憩時間は有効に使わないとなあ。ってことで、それ、頼んだぞ」
 指先を突き付けてそう言うと、日野が仕方なさそうに溜息をつきながら頷いた。「じゃあな」とすれ違いざまにぽん、と片手を頭の上で弾ませると。

 少しだけ頬を染める日野が、弾かれたように真直ぐに金澤を見つめ返した。


 昼休みで、人の気配が絶えた廊下。
 安いスリッパの底が床の上でぺたりと冷たい音を立てる。
 その足取りは、酷く重い。

「笑えない、よなあ……」
 先ほど呟いた言葉を、金澤はもう一度繰り返す。

 もう、それなりに大人になったから。
 認めたくない、心の奥底に眠る気持ちの名前がなんなのか。
 そして、あの少女が自分へと向ける想いがなんなのか。
 その答えへは、辿り着こうとしている。

 でもその先にあるのが、誰もが手放しに喜んでくれる未来ではないことを知っているから、輝かしいものだけを見てはいられない自分は、幾つもの理由をつけて躊躇する。

 年の差や。
 自分達の置かれている状況、互いの立場や。
 何よりも、自分の今考える想いこそが、全くの勘違いではないのだろうかと思ってみたりする。

 だけど、ただ思い切ってこの手を伸ばしてみるだけで。
 遠く、自分には関わり合いのないところに存在しているように思える、彼女に。
 容易く手が届いてしまうから。

「……笑えない」
 言い聞かせるように何度も繰り返して、金澤は乱暴に片手で自分の髪をかき回す。

 冗談で、笑って誤魔化すことすら出来ないくらいに。
 霞のような、常識では考えられないくらいに馬鹿馬鹿しく、そしてどこまでも純粋な想いは。

 『絵空事』から『現実』へと、もう、既に移り変わろうとしていた。




あとがきという名の言い訳 

見守る大人としての金やん像は渡瀬の中で固まっているのですが、一人の男性としての金やんを書くのはなかなかに難しい……。
金やんを書いてみて分かった、渡瀬が書く男性キャラのヘタレ度の強さ(笑)
でもまあ、一般常識的にきっと精神的に男の人は弱いということで!

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