携帯電話のメモリ。
アドレス帳のあ行の欄の一番最後に並ぶ、四つの漢字。
分からないこととか、相談したいことがあったら遠慮しないで連絡してねと、あの優しいばかりの先輩は、惜し気もなく簡単に香穂子に連絡先を教えてくれた。紙片を受け取ったその日の夜に、彼の情報を手の中に収まる小さな携帯電話の中に、きちんと覚え込ませている。
だが、実際にかけたことは一度もない。
かけたいと思ったことは何度もある。そのたびに、もしかしたら今は忙しいのではないか、こんな何でもないことで電話をかけては迷惑なんじゃないかと、マイナス思考ばかりが頭の中で渦巻いた。
あの人は、嫌なことを顔に出さないから。
全て受け止めて、呑み込んでしまうから。
ほどほどに、どこかで発散してくれる人ならいい。だけど、そんなふうに愚痴ったり爆発したりする姿が、あの穏やかな先輩からは想像が出来ない。だから、きっと受け止めるだけだ。そうしていろんなものを、自分の中に蓄積させていくだけなのだ。
「……もう、4回目なのになあ……」
自室のベッドの上に座り込んで、枕元に携帯を放り投げる。溜息と共に、香穂子は誰も聞くことのない呟きを吐いてみる。
明日で、学内音楽コンクールが終わる。
これまでの3回のセレクション、とにかく覚えた楽曲を弾きこなすのに必死だった。毎日毎日、放課後はファータを追いかけて走り回り、校内の様々な場所で演奏して。
ヴァイオリンを弾くようになって知ったのは、演奏をするということが、遠目に見て思うように、優雅ではないこと。香穂子達がセレクションで弾くのは、予めセレクション用に編曲し、短縮したものではあるが、実際の曲全部をきちんと弾きこなすとなると、体力も繊細さも相当なものが求められる。もちろん、編曲されているとはいえ、これまでヴァイオリンに触れたことすらなかった香穂子にとっては、ほんの数分の演奏であろうと、重労働であることに違いはない。
だからなのだろうか、これまでの3回のセレクションの前日、香穂子は緊張というものをしたことがなかった。がむしゃらに練習をして疲れ果て、取りあえずその成果が明日には出てしまうと思うと、逆に脱力してしまい、夢も見ないくらいの深い眠りについた。
それなのに、この最後のセレクションだけは違った。疲れているのも、明日で終わりだと思うことも変わりはないのに、どうしても眠れない。3回のセレクションをこなすことで、流石に演奏をするということに慣れたのだろうか。心身共に、多少の余裕がある。
余裕があるということは、余計なことを考えてしまうということでもある。これまではただステージ上で、沢山の人間の前で覚えた曲をきちんと弾かなくてはと、それだけで頭は一杯だったのに、ここに来て、マイナスなことばかりが頭の中を過っていく。
突然、旋律を忘れてしまったらどうしようとか。
ステージ中央に行く前に、慣れないヒールの高い靴の覚束ない足取りで、転んでしまったらどうしようとか。
むしろこれまでの方がよっぽど危うかったはずなのに、ここにきて、今更そんなコントのような馬鹿みたいな失敗をしてしまわないかと、不安になるのだ。
手元から離した携帯を横目でちらりと眺め、香穂子は自分の中に理由を打ち立てて、この携帯をあの人に繋げられない自分の弱さの責任を、その理由に押し付けてみる。
(……だって、寝てるかもしれないし)
常識的に、気軽に電話をかけるような時間帯ではない。
どうしてもかけなければならない、譲れない理由があるならともかくとして。
ただ、明日の最終セレクションが、ほんの少しだけ怖くて。
眠れない。それだけのことで。
それでも、あの先輩の穏やかな柔らかい声を聞くだけで。
ひどく心は安堵するだろうということも、分かっているのだけれど。
……だからこそ、どうしてもあの人へと繋がる携帯を手放せずに。
こうして、傍らに置いたままにしているのだけれど。
未練がましく枕元に転がった携帯に向けた、その視線の先で。
突然、明るい音楽を奏でて震え出す、小さな機体。
反射的に、香穂子は両手で携帯に飛びついた。
……かけてきたのが、誰だと確認したわけではないけれど。
何となく早く出なければと本能に命じられた気がした。
「も、もしもし!」
『ああ、香穂ちゃん?』
ごめんね、夜遅くに。
まだ起きていた?
……もう寝てしまったんじゃないかと、少し不安だったんだけど。
落ち着いた、柔らかく穏やかな声。
香穂子が聞きたいと望んで。
そうして、この微弱な電波を自分の元へ繋いでくれないかと願っていた。
その人の、声。
「王崎、先輩……」
自分の声で、その人の名前を形作ってみたら。
安心して、思わず涙が出そうになった。
それを隠したくて、呼吸を呑み込んで我慢していたら。
受話器の向こうで、王崎が苦笑する気配がした。
『……明日で最後だと思ったら、何だか眠れなくて』
「……はい、私もです」
王崎には見えないのに、香穂子は一人で大きく頷く。
『別におれが参加するわけでもないのに、妙に緊張しちゃって。……君の声を聞いたら、落ち着くんじゃないか……なんてね』
「……はい」
私もです、と続きそうになった言葉は呑み込んだ。
王崎のように何の意図も含まずに告げる言葉ではないから、何だか恥ずかしい気がした。
『準備は大丈夫? 心残りはない?』
「はい」
子供を心配するような王崎の口調に、少しだけ胸を痛ませながら、香穂子は笑ってまた頷く。
『じゃあ、ゆっくり休まないとね。最後なんだから、順位も出来も二の次で、まずは君が楽しまないと』
「はい。……あの、王崎先輩?」
『ん?』
「……ありがとうございました」
香穂子は静かにお礼を告げた。
ただ、当たり前のことを。
当たり前に尋ねられて、そのたびに、一つ一つ返事をしてみただけ。
たったそれだけのことなのに。
確かに、波立っていた香穂子の心は、凪いだのだ。
『お礼を言われることなんて、何もないよ。……それより、セレクション前なのに、遅くにごめんね。迷惑じゃなかった?』
「大丈夫、いい気分転換になりました」
『そう? ……それならよかった』
よかったと耳元で呟いた王崎の声は。
普段より、少しだけ低くて。
この人は、やっぱり男の人なんだと。
妙なところで、香穂子は実感するのだった。
指先で、通話のボタンを切って。
ベッドの上に座り込んで、両膝を抱えて、香穂子は天井を仰ぐ。
明日で終わるセレクション。ヴァイオリンを続けるのかどうかなんて、まだ未確定なままだから、このままなら、あの優しい先輩との関係が終わる。知り合った以上、会う機会がないわけではないだろうけれど、これまでのように頻繁に顔を合わせることはなくなるだろう。
(でも私、貴方という存在が欲しいんです)
眠れぬ夜に。
他愛無い僅かな時間の会話で。
沈んでいた心を、魔法みたいに癒してくれる人。
(そんな人、他にいないんです)
だから、手に入れたい。
あの穏やかで、柔らかな。
精神安定剤みたいな、心に響く低い声。
その声の持ち主。
誰よりも大好きな、あの男性を。
あとがきという名の言い訳
渡瀬は書き分けることがあんまり得意ではないので、香穂子は相手が誰であっても設定を変えてません。
その中で、相手が王崎だと香穂子が結構強気になってきます。多少強気なところがないと、いわゆる「いいひと」な王崎と恋愛関係に発展しないということでしょうか(笑)


