待たせるというのがとても気の毒で、先に帰っていてもいいと言うのだが、「私が、ほんのちょっとでも王崎先輩との時間が作りたいんだから、いいんです」ときっぱり言われて微笑まれてしまうと、もう二の句が告げない。
……王崎のためでなく、あくまで自分のためだと言い切ってしまうのが、とても彼女らしい。
学内コンクールも終わってしまった今、時間を潰すのも難儀をしそうだと思うのに、意外に彼女はそれを満喫しているらしく、コンクールの時のようにヴァイオリンを弾いてみたり、図書室にこもってその日の課題を終わらせたりと、うまく時間を使いこなす。案外、それも香穂子が王崎に心配をさせないためのパフォーマンスなのかもしれないが、それでも決して香穂子にとってマイナスになることではないと思えるので、良い事には違いないのだろう。
(さて、今日は……)
少しだけオケ部の練習が早めに終わり、夕暮れに染まる校内で、王崎はふと立ち止まった。
香穂子はどこにいるのだろう?
奔放な彼女は、確かに放課後に飽きがこないくらい、たくさんの時間の過ごし方を知っているのかもしれないが、唯一の欠点は、そんな彼女の居場所は、なかなか的が絞れないという事だ。いつもはオケ部の終了時間に合わせて香穂子が部室まで王崎を迎えに来るので問題はないが、こんなふうに予定がずれてしまうと、簡単に彼女を探し当てる事はできない。
先程から携帯を鳴らしてみるのだが、応答がない。コールは繰り返しているから、考えられるのは、マナーモードの携帯のコールに、気づけない場所。
……屋外か。
周りの騒がしさでいえば、校舎内も考えられるのだが、こんなふうに突然オケ部終了の時間帯がずれることも稀とはいえど皆無ではないので、香穂子は屋内にいる間は片手かスカートのポケットの中に携帯を入れて、振動に気付くようにしているのだ。
屋外といえば、屋上か森の広場。……おそらくは、後者だろうと思う。
屋上は静か過ぎて、携帯の着信には、すぐに気付いてしまうから。
森の広場。
たくさんの学生で賑わう、心地のいい場所も、もうすぐ最終下校の鐘が鳴る時間ともなれば、流石に人の影も少ない。既に家路につこうとする疎らな生徒の流れに逆行するように、王崎は森の広場の奥へ奥へと入っていく。
木陰の芝生。ベンチが置かれた、池からは少し距離のある場所。
そこが、香穂子のお気に入りの場所。
生い茂る背の低い木々を掻き分けて、ひょいと覗き込んでみると、思った通り、香穂子はそこにいた。
そこにいる彼女を見つけて。
……王崎は思わず苦笑する。
「……だから、電話に気付かなかったのか……」
芝生の上で無防備に横たわって、香穂子は安らかな表情で微かな寝息を立てている。投げ出した片手の側に、着信を示す赤いランプが点滅する、香穂子のオフホワイトの携帯電話が転がっていた。
「こら、香穂ちゃん。風邪を引くよ」
香穂子の傍らに腰を下ろし、笑いながら王崎が声をかける。
だが、よっぽど深く寝入っているのか、香穂子は少し身じろいだだけで、一向に目を覚ます気配がない。
「香穂ちゃん。駄目だよ。起きなきゃ」
「……んー」
肩に触れて、揺すってみるけれど、小さな声で返事なのかなんなのか分からない言葉を発するだけで、やはり香穂子は目覚めない。横向きの姿勢から寝返りをうって仰向けになり、そしてまたすうすうと穏やかな寝息を立てる。
「……困ったなあ」
指先で頬を掻いて、王崎は小さな溜息をつく。
いつも、元気に走り回っているし。
自分のために無理もさせているし。
何よりも、あどけなく眠っている彼女は、とても安らかで。
可愛らしいから。
そのまま寝かせておいてやりたい気持ちもあるのだけれど。
でも、このまま寝ていては風邪を引かせてしまうし。
何よりも、二人で過ごす時間が減ってしまう。
「……起きてくれないかなあ」
途方に暮れて、ぽつりと王崎が呟くが、香穂子は相変わらず、すうすうとした寝息で答えるだけで。
(……覚めない眠りを覚ますには、どうすればいいんだっけ?)
ボランティアで、子供にヴァイオリンを教えに行った時に、少し恥ずかしそうに頬を染めて、こっそりと、だけど得意げに王崎に教えに来た女の子の言葉が、ふと脳裏を過った。
(あのねえ、お兄ちゃん)
(お姫さまのねむりをさますのは)
(王子さまの)
……ねえ、香穂ちゃん。
自分でも、子供みたいな。夢みたいな希望だって思うけど。
おれは、君の。
君だけの、特別な王子様になれるかな。
「……あ、あれえ?」
ぱちりと目を開けて、香穂子が素頓狂な声を上げる。
空はもう、夕暮れの空。さっきまでは、普通に高い、秋の青空だったのに。
もう一つ驚いたのが、自分の側にある、眠る前まではなかったはずの、人の気配。視線だけそちらに向けて、そこにいる人物を目に止めて。
香穂子はまた、「あれえ?」と素頓狂な声を上げる。
「王崎先輩、いつの間に?」
「……オケ部が早く終わったからね。携帯を鳴らしてみたけど応答がないから、ここじゃないかと思って、迎えにきたんだ」
「え、あ、ホントだ!ごめんなさい!」
身を起こしてみると、手を置いていた場所の近くで、薄暗がりに、点滅する小さな小さな光が見えた。
よいしょと手を伸ばし、それを掴みながら、香穂子はふと間近になった王崎の顔を上目遣いに見上げてみる。少しだけ怪訝に眉を寄せ、首を傾げた。
「……王崎先輩、もしかして私が起きるの待つのに、風邪なんか引いちゃったりしたんじゃないですか?」
「え?そんなことはないよ?……なんで?」
「だって、何だか顔が赤いですよ?」
触れるだけの口付けで。
眠り姫は簡単に目を覚ます。
その目覚めの口付けの熱さを知っているのは。
目覚めさせた王子だけ。
あとがきという名の言い訳
普段は仏さまな王崎ですが、こういう一面があってもいいかと(笑)
火原とか王崎とか、はたまた白柚木とか(笑)「いい人」という人を書くのがつくづく苦手だなって思うんですけど、それはある意味渡瀬から一番遠い人格だからでしょーかね(泣)


