月森が厳かに宣告する声が、月森と香穂子しかいない静かな保健室に響いた。
丸い椅子に座って、どこかふらふらと揺れていた香穂子が小さな溜息をついて視線を足下へ落とす。
そんなに病弱な方ではないのに、最近は何故か発熱することが多くなってしまったような気がする。特に風邪や、他の病気の症状が出るわけではないのだから、原因が過労であることくらいは自分でも良く分かっている。
こんなふうに、体調を崩しやすくなったのは、ヴァイオリンを始めてからだというのを、香穂子は自覚していた。
「家まで送るから、今日はもう帰ろう。そして、君はゆっくり休んでくれ」
こちらも小さな溜息を落とし、苦笑した月森が香穂子を促す。
のろのろ、と力なく視線を上げ、小さくこっくりと頷いた香穂子が、月森から差し出された自分のバッグを、手を伸ばして受け取った。
別に、追い付きたい、追い越したいという大それた願いを持っているわけじゃない。
並べなくていいから、その背中を見失いたくない。
願うのは、ただそれだけなのに、時々月森は、そんなささやかな願いすら、叶いそうもない、途方もない願いにしてしまう。
練習を重ねて、重ねて。
階段をきちんと一段、上に昇って。
そうして、月森の姿を探すと、彼はずっと先にいる。香穂子の予測する場所よりもずっと高い位置。遠い位置に。
香穂子がたった一段のステップを昇るうちに、一足飛びで月森が先に行く。もっともっと差をつけられる。
いつか、その背中を見失いそうで。
届かなくなりそうで。
そうなってしまったら、『ヴァイオリニスト』の香穂子だけでなく。
『恋人』の香穂子も、月森の視界から消えてしまいそうな気がして。
月森に教えたら、優しく笑って否定されると分かり切っている弱音は、それこそ吐けなくて。
行き場のない焦りを、香穂子はヴァイオリンを練習することに向けてしまう。
ただ、無闇にがむしゃらになっていても。
そこに実る成果はないのだと、ちゃんと知っているのに。
「……無茶な練習をし過ぎだろう、君の場合」
帰り際、二人で肩を並べて歩いていると、苦笑混じりに月森が切り出した。
香穂子はぐ、と言葉を呑んで、ただ無言で歩く。
本心を隠せば、それは嘘の言葉になるし。
本心を晒せば、それはただの愚痴になる。
微熱で多少ふらつく香穂子の腕を、月森の空いた片手が掴んで支えている。
こんな負担をかけるために、自分は月森の側にいるのではないのに。
何も言わない香穂子に、月森は少し困ったように溜息を吐く。
……慰めることは苦手だ。
励ますことも。
だが、香穂子のためならば、そんな苦手分野に足を踏み込む気にもなる。
苦手なことに代わりはないし、当然ながら上手くもないのだろうが、そんな不器用さを素直に受け止める女性だということは、初めから分かっているから。
「……香穂子」
しばらく、自分達の微かな乾いた足音を聴いていた月森が、沈黙を壊す。
恐る恐る、斜めに自分を仰ぎ見た香穂子を、優しく微笑んで、見下ろした。
「香穂子、……君は、『俺』になるな」
思い返せば。
なんてつまらなく、ヴァイオリンを弾いていたのだろうと、香穂子に出逢う前の自分を省みて、思う。
ただ、技術だけを磨いて。
人に評価されることだけに意識を向けて。
自分というものを表現する手段が、『それ』しかないと知っていたから、ヴァイオリンを手にしたはずだったのに。
その根本を、自分は見失っていた。
その間違いを教えてくれたのが、香穂子の音色。
小細工のない、真直ぐな。
素直な彼女の気質そのままの、柔らかなヴァイオリンの音色。
鏡を見るみたいに、その音に出逢えたから。
自分は、失いかけた初心を取り戻せた。
「君が、君のままでいること。……君に、俺が何か求めることが許されるのなら、それだけが、俺の求めるものだ。君は、俺のようにならなくていい。君らしく生きていい。……それが」
一度言葉を切って。
月森は、香穂子の腕を掴んだ指先に、力を込める。
「それが、君が俺の側にいてくれる意味だ」
香穂子が香穂子らしくあるならば。
例えゆっくりの速度でも、彼女は必ず向上する。
無責任に投げ出したり、中途半端なところで満足しないのは、彼女の本質だ。
何よりも違う人間だからこそ、自分達は惹かれ合った。
月森と香穂子、初めから、立ち位置は違っていた。
『極める』音楽と、『楽しむ』音楽。
お互いに心に秘めた音楽が、全く異なるベクトルを持つ音楽だったから。
自分達は、お互いを必要としたのだ。
「……わ、たし……」
ふわ、と香穂子の大きな目に、涙の粒が浮かぶ。
それを月森の目から隠すように、慌てて足下を見つめながら、香穂子はぱちぱちと瞬きをして、その雫を散らす。
「早く、休んで……熱、下げる、ね」
「ああ」
「月森くんと、一緒にヴァイオリン弾くために……」
「……ああ、それでいい」
求めるものは。
交わることのない、並列の〈octave〉ではなくて。
違うものが交わることで、更に思いがけない化学変化をもたらす〈harmony〉。
月森が、月森らしく生きて行く人生と。
香穂子が香穂子らしく生きて行く人生とが。
混じりあって、生み出して行く。
誰も知ることのない、幸福の形。
あとがきという名の言い訳
自分的に、月日の基本形です。
渡瀬は、香穂子は月森と同じタイプの、ある意味純粋なヴァイオリニストでなくて、遊び心を持った演奏者であっていいと思ってるんで、どうしても「演奏者」としての香穂子を書こうとすると、月森の方がこういう結論を導きます。
『変わらないこと』と『成長すること』は別もんだという話……のつもり……なんだけど……?(弱気)


