特別な音

月森×日野

 それは決して、演奏家を目指す自分が、尊敬に値するものとして認識するような音色というわけではなく。
 どちらかといえば、稚拙さ、未熟さを内包した、たどたどしい演奏でしかなかったのだけれど。

 それでも、どうしても耳の奥に残って消えない。
 そんな、特別な音色であったことは。

 ……今になって、思い返してみれば。




 香穂子のヴァイオリンを聴いていると、いつの間にか表情が綻んで、頬が緩んでしまう自分に気付く。それを香穂子に気付かれると「どうせ、まだまだな演奏ですよ」と拗ねられてしまうのだが、もちろん彼女が思うような、嘲笑の意味で笑っているわけじゃない。
 本当は、彼女もそんなことは分かっているはずで。
 ……つまりは、怒ってみせるのも、彼女一流の照れ隠しで。
「付き合い始めてからの月森くんは、何か、丸分かりで余計に困る」
 と、もう自分ではどうにも制御出来ない部分のことで、愚痴らしいものも言われてしまう。
「君の音を好きだと思うから、仕方ない」
 と、正直な気持ちを述べてみると、香穂子には余計に叱られてしまうし。


 照れ隠しの一端で。
 視線を反らした香穂子が、ほんのりと頬を赤く染めて、「何でそんなに私の音、好き?」と尋ねてくるのだが。
 本当に、心の奥底にある、好ましく思うものを集めて囲った琴線に、彼女の音色が触れて、揺らした。
 ……ただ、それだけの理由でしかなくて。

 技術的に、何か学ぶものがあるわけではなくて。
 どちらかといえば、真っ先にその音の拙さだけが伝わってしまう、そんな未熟な音でしかなかったのに。
 何故だろう。今になって思い返してみれば。
 初めから、彼女の音は嫌いじゃなかった気がする。

 ……もっと、はっきりとしたことを言うのなら。
 自分は初めから、彼女の音に心惹かれていたのだろう。

 拙いと、未熟だと思いながらも。
 昼休み、放課後、……例えば、その瞬間に月森の耳には届いていなくても、どこかで必ず奏でられているはずの、彼女のヴァイオリンを想い。
 月森が認識する世界に蔓延する、たくさんの音の欠片の中から。
 いつだって、彼女の音を探していたのだから。


 出逢った頃は、そんなふうに彼女の音に惹かれる意味が、分からなくて。
 どうしても彼女の音を求めずにいられない自分に、苛立った時もあった。
 だけど、彼女と少しずつ関係を深めて。
 彼女の音だけでなく、彼女自身に惹かれていく自分を知ってから。
 ようやく、月森にも分かって来た。

 本当は、初めから。
 惹かれたのは、彼女の音色だったんじゃなくて。


「……香穂子」
「ん?」
 名を呼ぶと、正面に立つ香穂子が、伺うように小さく首を傾げて、真直ぐに月森を見る。
 その、優しい視線が。
 ……月森の外側に張り巡らされていた、たくさんの余計なものを。
 それこそ親の肩書きや、自分以外の他の人間が、不器用な自分に押し付けていた評価等を、簡単に超越して。
 その向こう側にあった、たった一人の人間としての『月森蓮』を見つけてくれるのだと。
 ……きっと、自分は知っていたのだ。
 そう。……あの、彼女の音色によって。

 香穂子が、慣れないヴァイオリンで奏でていた、最初から『香穂子』らしかった、あの音色。
 未熟さも、拙さも。
 建て前なしで、本音のみを曝け出してみせる。

 香穂子の音に、小細工はなく。
 素直で暖かく、いつでも一生懸命で。
 そして、どこまでも捻ることなく、真直ぐだった。

 自分は、きっとそれに惹かれた。
 嘘偽りのない彼女のヴァイオリンが、初めから彼女という人物を如実に語っていた。

 あの、どうしようもなく探してしまう、暖かな音色が。
 初めから、月森の好ましいものだった。



 腕を伸ばして。
 驚く香穂子に頓着することなく、彼女の華奢な身体を両腕の中に捕らえる。
 彼女の背中の方に回した両手を、緩く組み合わせて、逃げられないように閉じ込めた。

「……月森くん?」
 戸惑うような香穂子が、月森の腕の中で、月森にしか聴こえないくぐもった声で名を呼ぶ。
 月森は、頬を染めて微笑う。

 こんなふうに。
 彼女の存在を、誰よりも近いものだと感じる時。
 彼女が、自分を呼ぶ声すらも。
 自分にとっての特別な音になる。

 彼女の声は。
 彼女のヴァイオリンと同じ。

 心の中を、無防備に曝け出す。
 小細工なしに見せつける。
 素直で、暖かで。
 彼女という存在、そのものの音色。

「……呼んで。……香穂子」
 俺の名を。

 そんな月森の願いに応じるように。
 今度は、先程よりも幾分か落ち着いた。
 ……甘さを含んだ声音で。

「……月森、くん……」

 静かに月森の名を呼んだ香穂子は、幸せそうに微笑んで。
 目を閉じて、ゆっくりと自分の身体を月森の胸に委ねる。


 他の誰が聴くこともない。
 彼女の素直さがそのまま曝け出す、自分への想いを十二分に含ませた、自分自身の名は。

 それもまた、消えない残響となって月森の心の奥に刻まれる。

 月森しか知らなくて構わない、特別な愛おしい音。




あとがきという名の言い訳 

「甘くなーれ☆」と呪文をかけながら書いてみた、ある意味バカップルな人達。なに、このラブラブ(←死語)
結局のところ、声だろうがヴァイオリンだろうが、香穂子が月森に向けて発する「音」が特別なんだと言いたかったはずの話。
数をこなすと、だんだん訳分からなくなりますね。それも、修行修行!

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