君に酔う

月森→日野

「も、……もしもし、日野です!」

 少し遅い時間に鳴らされた携帯電話。
 メールでのやり取りや学院内で呼び出したりする時には彼女の受け答えは屈託がない。それに携帯への電話なのだから、月森本人が出るのも承知の上だと思うのに、少しだけ緊張しているような、上擦った声に、月森は微かに笑った。
「えっと、遅くにごめんね。今、大丈夫だった?」
「ああ、特に問題はない」
 読みかけていたハードカバーの本を栞を挟んで片手で閉じて、月森が答える。
 安堵したような吐息が受話器の向こうから聞こえて、そして気を取り直したように香穂子が少しだけ明るさを取り戻した声で言った。
「あの、月森くん。明日の土曜日、時間ってあるかな?」
 月森は机の端に置いてある卓上カレンダーに視線を送る。明日の日付が印字された場所には、何の印も付けられていない。
「特に予定していることはないが。……練習か?」
「あ、うん。余裕があるなら、それもお願いしたいんだけど、本題は別なの。……実はね、予備の弦を買いたいんだけど、違いがまだ良く分からなくて。選ぶのに、相談に乗ってくれないかな」
 心底困ったような、申し訳なさそうな香穂子の申し出を、月森は二つ返事で承諾した。


「ごめんね、忙しいのに呼び出して」
「いや、俺で力になれることならば、頼ってもらって構わない」
 月森の言葉に、香穂子が嬉しそうに微笑む。ゆっくりと人通りの中に足を踏み出しながら、考え込むように頬に指先を当てた。
「やっぱり、メーカーとか、生産地とか?そういうので音も変わってくるものなんだよね?」
「そうだな。演奏や曲との相性もあるから、こればかりは弾き比べてみないと、どれが最良だとは個人差があって、一概には言い難いが」
 楽器屋に向かって歩きながら、二人でああでもない、こうでもないと語り合っていると。

「日ー野!」
 ぽん、と肩を叩かれて、香穂子が反射的に振り返る。月森も釣られて香穂子と同じ方向を肩ごしに振り返るが、親しげに話しかけて来た私服姿の青年には見覚えがなかった。
「あ、あれ?何でこんなところにいるの?」
 驚いたように香穂子が高いトーンの声を上げて、それから、ふと気付いたように月森の方を見た。クラスメイト、と唇の動きだけで説明されて、成る程、と月森は頷いた。
「何でじゃねえよ、文化祭用の買い出しだよ。お前、いいよな。ステージがあるから、こっちの準備、免除だろ? 呑気にデートなんかしてやがるしよ」
 肘で小突かれて、香穂子がむう、と頬を膨らませた。
「デートじゃないよ! これでもコンサートの準備なんですう! 楽器屋に弦買いに行って、その後練習するんだから」
 片手に下げたヴァイオリンケースを掲げて、香穂子が抗議する。一瞬怯んだ香穂子のクラスメイトは、にやりと笑って片手を伸ばし、ぐしゃ、と香穂子の髪を片手で掻き混ぜた。
「おーおー、えらいえらい。その調子で、学院のために頑張れよ、日野」
 わかってますよーと香穂子が舌を出して、クラスメイトが弾けるように笑って。
 彼が軽く繰り出した拳を肩に受けて、香穂子が応じるように彼の足を蹴りつけるフリをして。

 ああ、仲がいいんだなと、微笑ましくその様子を月森は眺めている。
 ……目の前の光景は、誰にでも好かれる香穂子に、相応しい姿で。
 おそらくは、月森が知らない、普通科で生きる香穂子の日常に、当たり前にあるもの。
 それを、自分は本当に知らないんだな、と。
 実感したら、何故か胸の奥が、冷たく冷えきっていくような気がした。

 じゃあね、また学校でな、と挨拶を交わして、クラスメイトとの会話を終えた香穂子が、ごめんね、と呟きながら月森を振り仰ぐ。
 そして一瞬後に、香穂子がその表情から笑みを消した。

「つ、月森くん!大丈夫!?」
「……え?」

 香穂子が突然焦り出した理由が分からず、困惑したまま月森が香穂子を見下ろすと、心配そうに眉根を寄せた香穂子が、月森のシャツの袖を引っ張った。
「顔色、真っ青だよ。具合悪いんでしょう?」
「え?……いや、……あまり自分では分からないが……」
 それよりも楽器屋は、と言いかけた月森の言葉を、香穂子の大声が遮った。
「楽器屋は逃げないから、今はちゃんと休もう!」
 そのまま香穂子が月森の袖を引いて、早足で歩きながら導いていった場所は、すぐ側にあった公園内のベンチだった。



「味、濃くない方がいいと思って、ミネラルウォーターなんだけど。冷たくて大丈夫かな?」
 ベンチの傍らに設置されていた自販機で購入したペットボトルを香穂子がおずおずと差し出した。
 ありがとう、とそれを受け取り、自分の傍らに置いた月森は盛大な溜息を付く。

 具合が悪い、というのとはまた違うだろうと思う。
 ……何なのだろう、この、不快感は。

「……ごめんね」
 月森の隣に腰掛け、しゅんとしょげて、香穂子が小さな声で呟く。
「月森くん、あんまり調子が良くないのに、私が無理に頼んだせいで……」
「……あ、いや……」
 慌てた月森が思わず身を起こし、香穂子の方へ向き直る。

 ……体調が悪いわけじゃない。
 この不快感は、……おそらく。

「……今日は、人が多かったから。少し人に酔ったんだと思う。……人込みは、苦手なんだ」
「……そうなの?」
 大きく瞬きをした香穂子が、月森をじっと見つめ返して。
「そうなら、よかった」
 それから、少しだけ安堵したように、ふわりと笑った。
「あ、でもそれって、私が誘ったから具合が悪くなっちゃったってことには変わりがないんだよね」
 ふと、思い付いたように呟いて、香穂子は何を思ったのか、月森の側にある自分の肩を、反対の手でぱしんと叩いた。
「どーぞ」
「……え?」
 香穂子の行動の意味が分からず、戸惑って尋ねると、香穂子は屈託なくにっこりと笑って、伺うように首を傾げた。

「寄り掛かっていいよ。まさかここで寝て!なんて言えないから。ちょっとでも楽になるように」

 頑丈だから、思う存分体重かけて大丈夫だよ、と胸を張った香穂子の論点が、多少ずれているような気がしなくもなかったけど。


 半分、本気。
 半分、冗談の心持ちで。
 月森のことだから、香穂子に対して、弱い部分は見せてくれないだろうと思いながらの、一か八かの提案。
 ……だったのに。

(う、うわあ……!)

 内心、香穂子はものすごく焦った。
 斜めに傾いだ月森の身体が、こめかみの位置で、香穂子の肩に触れて、止まる。
 香穂子に全ての体重がかからないよう、気を使ってはあったけれど。
 確実に、月森の重さを、香穂子は自分の肩に感じていた。

「……五分でいいから」
 静かに呟いた月森が、ゆっくりと長い睫毛を伏せた。
 腕を組んで目を閉じた、無防備な月森の存在が、少し視線を落とせば全て見えるくらい。
 ……手を伸ばせば、簡単に届くくらい。
 香穂子の、すぐ側に在った。



(……五分で、いいから)

 彼女は、誰のものでもない。
 勿論、月森のものでもない。だから、彼女が自分以外の誰とどう関わろうが、月森が口を挟めることじゃない。

 それでも、彼女が自分以外の男に笑いかける事実に、自分の心はこんなにも脅かされる。

 少し緊張して、固くなった彼女の身体。
 そこに触れ、彼女の甘い香りを感じ取り、満たされることが出来るこの距離で。


 何かの影響を受け、酔わされる弱さしか持てないのであれば。
 どうせなら、君の香りに酔っていたい。
 ……その間だけは、彼女が自分だけのものだと自惚れたい。



 ほんの一時でも。
 ……今はそれで、構わないから。




あとがきという名の言い訳 

人込みって酔いますよね!(オマエの話かよ)
このお題を見た時に、何かでこういうフレーズを聴いた気がするのに、それがどうしても思い出せなくて、悶々としてました。書いた後に思い出しましたが。

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