君想い、奏でる音

土浦×日野

「……えっ!」

 土浦の自宅。防音処理の施された壁に四方を囲まれたピアノの練習室で、土浦の指先が生み出す音の洪水が、狭い部屋を満たしている。
 もう、恥も遠慮もなく、壁際に背中を預けて、床に直接座り込んでいた香穂子が、突然真っ赤になって、素頓狂な大声を上げた。
 その唐突さに、咄嗟に土浦の指先も動きを止める。室内に満ちていたフランツ・リストの『愛の夢』が、不自然な位置でぶつりと切れた。

 正直、演奏が途切れたことには安堵していた。
 香穂子が、土浦のピアノで聴きたがっていた『愛の夢』。
 彼女に願われて、乞われれば「仕方ない」と披露してみる気にもなったのだが、如何せん、あまりにも普段の自分とのギャップがあり過ぎる。
 あまりにも自分に似つかわしくなく、柄じゃない。
 せがまれたからとはいえ、彼女好みの曲を、彼女のために習得して弾くという行為自体が、自分にはそぐわないように思えていた。
 別に、嫌々ながらだったとか、憂鬱だったとかいうわけではないのだが、いびつな形の容器に無理矢理押し込められてしまったような、妙な窮屈さがあった。
 だから、土浦は半ば意気揚々と鍵盤を叩く指を止めた。
 香穂子の方に視線をやると、まだ頬を赤く染めたままの香穂子が、まじまじと土浦の方を見つめていた。
「……何だよ」
 今度は、その真直ぐな視線が居心地が悪くて。
 香穂子の驚きの声に便乗して、似つかわしくない演奏をやめてしまった後ろめたさもあった土浦の口調は、知らず素っ気無くなっていた。
 だが、香穂子の方といえば、今自分が発見した『何か』のことを考えるので頭が一杯のようだった。土浦の態度を咎めることもなく、ただ土浦の顔に視線を止めては、それを泳がせて、また戻す。そして、増々赤くなる。それを繰り返している。
「……香穂?」
 その香穂子の態度を訝しみ、土浦が彼女の名を呼ぶと、香穂子は何か言いたげに、口を開いて、閉じ、やがて思い切ったように「あのね!」と切り出した。
「あの……変なこと聞くけど、怒らないで聞いてくれる?」
 土浦は、増々眉間に皺を寄せる。
「聞いてみなきゃ、何とも言えないが……」
「ううう、それじゃ言えない……」
 フローリングに拳に握った両手をぎゅっと押し付けて、香穂子がふるふると首を横に振る。わかったわかった、と土浦は苦笑した。
「怒らないから、言ってみろよ」
 別に香穂子はそれを言いたくないのではなく、むしろ言いたいのだ。
 こういう時の香穂子は、無理に聞き出さなくても、放っておけば自分から白状し始めるのだが、ここで香穂子の言葉を中断してしまうと、否応なく先程の演奏を続けなければならなくなる土浦は、あえて香穂子を促した。
 どうぞ、と片手で促すと、香穂子は意を決したように土浦の顔を上目遣いに見上げ、真面目な顔で土浦に聞いた。

「土浦くん、実は結構前から私のこと好き?」
「は!?」

 間髪入れずに、土浦が大声で問い返した。


 土浦が、苦手……というよりも、香穂子のために弾く楽曲としては、率直過ぎるため、敬遠することが分かり切っていた、『愛』の曲。
 どちらかといえば、ストレートに感情が曲に現れるタイプなのに、何かを隠したままのような、少しぎこちない、不自由そうな土浦の演奏に、自分の我侭のせいなのだと申し訳なく思う反面、その不自由さこそが土浦らしさのような気がして、可笑しくて、嬉しかった。
 だが、徐々に曲が進むに連れ、香穂子はいつだったか、こんなふうに土浦が不自由そうにしている演奏を、以前どこか一度耳にしているような気がした。
 そんなに遠くはない、『聴いた』とはっきり認識出来る程度には近い過去。
 いつだったっけ?と土浦の音を追いながら考えていて。
 ふと、過去の記憶を紐解いてみる。

(そういえば)
(コンクールが終わる直前の土浦くんの音が、こんなだったかなあ)

 それに思い当たって。
 香穂子は、我に返る。

 上手く、表現出来ない『愛』の曲。
 優しく、暖かく。
 甘い音色は、確実にその曲の中に溶け込んでいるのに。
 はぐらかすみたいに。
 誤魔化すみたいに。
 ストレートには伝わらない、込められた『感情』。
 隠すから、ぎこちなくて。
 気付かせないようにするから、不透明で。
 もやもやして。
 はっきり形が見えてこなくて。
 ……それでも、そこに『それ』があることが分かる。
 そんな旋律。

 土浦と同じ想いを交わす今だから、香穂子にももう分かる。
 その隠された感情に、相応しい名前をつけるとしたら。
 『恋情』という名になるということが。



「だから、あの……実はその頃から、土浦くん、私のことを好きでいてくれてたのかなあなんて、思ったというか……気付いたというか」
「……へえ」
「土浦くん?……怒らないって言ったよね?」
 仏頂面の低い声で答えた土浦の顔を、香穂子は恐る恐る下から覗き込む。
 言質をとって牽制しながらも、微妙に弱腰なのは、変に自意識過剰なだけだったらどうしようという不安故で。
 そんな怯えモードの香穂子を横目に、土浦は小さな溜息を吐いた。
「……香穂。ちょっとこっち来てみろよ」
 指先で招かれて、香穂子は恐る恐る土浦の座っているピアノの近くへ歩み寄る。
 リーチのある土浦の手が届く射程距離に踏み込んだところで、ぱし、と手を掴まれて、引っ張られて。
 ぱちりと瞬きをして、我に返ったら、何故か土浦の膝の上に座っていた。
「あ、あのー、……土浦くん?」
 斜めに土浦を横顔を見て問いかけると、精悍な頬を赤く染める土浦が、再度小さな息をついて、香穂子から視線を反らした。
「……ったく、今さらそういう余計なことを思い出すなよな」
「え?」
 戸惑ったような香穂子の声に、小さく苦笑して。
 それから土浦は、まあいいか、と独りごちた。

「一応、それなりにお前には伝わってたってことだろ?」


 香穂子が何かを言い出す前に。
 緩く、土浦の唇が、香穂子の言葉を塞いだ。



 君を想い、この指から紡ぎ出されて行く、奏でる音は。
 どこまでも限り無く。
 優しく、甘く。響き渡る。

 ……だけどそれは、あまりにも普段の自分の外面とかけ離れた本心だから。
 我に返って、恥ずかしくて。
 きちんと取り繕いたいのに、上手く行かなくて。


 甘ったるい本心を曝け出しかけては我に返り、誤魔化し続けて、見失う。
 そして結局、原点に戻る。
 所詮、持て余すほどの彼女への想いに、振り回されているだけの自分を知る。

 それは、『愛情』を込めれば込めるほど。
 その愛情が深ければ深いほど。

 不器用な自分、そのままの。
 素直になりきれない、ぎこちない音になる。




あとがきという名の言い訳 

土浦は好きな女の子のためにラブバラードを歌ってみる、とか、そういう要素がないような気がしたんで、こんな話をば。
感情が率直に現れる弾き手だからこそ、出すと恥ずかしい感情は、逆に誤魔化し誤魔化しになるんじゃないなと。んで、自分が一番窮屈なんだよね!(笑)「いっそのことぶちまけたい、でもカッコ悪い!」みたいな。

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