奏でる音

土浦×日野

 練習室の片隅で、室内に満ちる音の洪水とは全く違う配置で並んでいる、手元の楽譜の音譜を眺めていた香穂子が、ふと怪訝そうに背後を振り返った。
 瞬きをする間だけ、音を溢れさせている人物の横顔を見つめ、それから小さく首を傾げつつ、また楽譜へと視線が戻る。そんな彼女の様子を気配だけで感じ取りながら、土浦は唇の端で小さく笑う。
(……成長してるな、香穂のヤツ)
 彼女の耳は元からいい方だと思ってはいたが、少し前の彼女のレベルなら、今土浦が奏でている音の違和感には、おそらく気づけなかっただろう。
 演奏を中断させて、指摘してこないところを見ると、違和感は感じていても、どう説明していいのかが分からないのだろうが、それはこちらとしても予想の範囲内のことであるし、逆に、そうでいてもらわなければ困る。
 そう思いながら土浦は、コンクール用に短く編曲済の旋律を最後まで弾き切り、最後の鍵盤を力強く叩く。
 突然、音の波が止んだ練習室の静寂の中に、強いピアノの余韻が広がった。


「絶対何か、違うのに!」
 帰り際、肩を並べて歩く、頭一つ半低い香穂子が、何故か悔しげにそう呟いた。
 原因に思い当たることがある土浦は、そ知らぬ振りで香穂子に問いかけた。
「……何が違うって?」
「土浦くんのピアノ! 今日のは、何か違ってた!」
 目線の下から、上目遣いで土浦を仰ぎ見て、香穂子がむう、と頬を膨らます。土浦が苦笑した。
「違うってのは別にいいけど、何怒ってんだよ」
「だって、もやもやするんだもん! すっきりしない~~!」
 その場で地団駄を踏む勢いで、香穂子が大声を上げた。それから、ふと思い出したように、もう一度土浦を見上げ、「あ、ピアノが駄目だったとかじゃないんだよ」と弁明した。
「逆に、すごいいい感じしたの。ちょっと、これまでの土浦くんの音と違うなって感じで」
 思い出すように、目の前の空中を睨み、眉根を寄せながら、香穂子は必死に自分の中の言葉を探す。
「だけど……なんて言うのかな? ピントが合わないっていうか……中心にあるものが、ぼやけてるような感じ? 土浦くんの音が、どこ向いてンのか分からなくて、何か、不安になったよ」
「……へえ」
 努めて何でもないふうを装いながら、漠然とながらも的を射た発言をする香穂子の音を聴き分ける力に、土浦は内心舌を巻いていた。


『自分の演奏で、何を如何に語るべきか』

 これは、いつか土浦が香穂子に告げた言葉。
 演奏は、演奏者の内面を如実に語る。
 語らない、自分の心を閉ざしたままの音楽は、とても無機質でつまらないものになる。……それは、ある意味土浦の持論だ。
 感情を乗せて歌う音は、どこぞの気に食わないエリート様に、「気品がない」と評価されることもあったけれど、『それ』がなければ自分の音ではないし、自分の音にはどうしても、『それ』が滲み出てしまうことを、土浦は知っている。

(……だから、お前には隠さないといけないだろ?)

 伝えたい想いがある。
 冗談で紛らわせられない、確実に届かなければ、意味のない想い。
 普段から、当たり前のように彼女に聴かせる旋律に、その想いを滲ませておくのも一つの手だろうとは思うけれど。

(伝えるのに相応しい舞台ってのが、ちゃんとあるだろ?)

 この想いが、側にいる普段の生活の中で、全く伝わっていないというのは淋しい。
 だけど彼女へ抱くこの気持ちが、本当にそれに相応しい場所で、伝えるべき……そのくらい大切な想いだということも、自分の勘違いなんかじゃない。

 だから、まだ。
 奏でる音に、本心は溶け込ませない。
 彼女を誰よりも愛おしく想う。……そんな、柄でもない、恥ずかしい本心は。
 今は、曝け出す時期ではないはずだから。

(……最終セレクションで。最高の舞台の上で)
 そんな愛おしい想いを全部込めて、奏でるピアノが。
 受け止めるべき彼女の心まで、間違いなく届いてくれればいい。

 ……その時、奏でる音こそを。
 本当に彼女が、正しく受け止めてくれるか。
 理解してくれるか。
 それはもう、本当に彼女次第だけれど。

「まあ、お前なら、俺の予想以上に大丈夫かもな」
 小さく笑って、香穂子の頭をぽん、と叩くと、反射的に叩かれた部分を空いている掌で押さえた香穂子が、「何の話?」と首を傾げた。


 鈍いようにみえて。
 何も分かっていないようにみえて。

 土浦がオブラートで包みに包んで隠し切った本心が、ほんの少しだけ滲み出た音でさえ、簡単に気付いてしまう彼女だから。
 それを受け止める彼女の答えが、たとえ何であれ。

 奏でる音に溶け込んだ、土浦の真実の心を。
 きっと、思いがけなく簡単に。
 受け止める彼女の心が、暴いてしまうのだろう。




あとがきという名の言い訳 

本当に、似たようなお題がいくつも集まってしまってね……(笑)誰か他の参加者の方が引き取ってくれるか、もしくは別キャラにバラけてくれたらよかったんですが、まんまと自分が土浦で書く羽目に……(--;)
仕方ないので、コンクール中、後と分けてみました。
ホントに修行だなあ、この企画(笑)

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