半分涙目で、必死に耐えていた香穂子は、やっぱりこらえきれずに、次の瞬間、盛大に吹き出した。
……放っておけば、永遠に続きそうな香穂子の大爆笑に、怒りに震える拳を握り締め、土浦は低く呟く。
「……香穂、お前、いい加減にしとけよ……!」
「ははっ……あは、あはははは!に、似合ってるよ、制服!……あはははっ、お腹痛い~~!」
「爆笑しながら言われても、説得力がねえんだよ!」
片腕で腹部を抱え、音楽科の制服に身を包んだ土浦を指差して悶絶する香穂子に、堪忍袋の尾が切れた土浦は、思いきり怒鳴り付けた。
「あー、今思い出しても可笑しい。あそこまで似合わないと思ってなかったよ」
大きく息を吐き、いまだに時折思い出し笑いをする香穂子に、土浦は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「ったく、何で試着なんかするんだよ。あんなん、当日で充分だっての……」
新しい学年に上がる春から、土浦と香穂子は音楽科への転科を決めた。
本格的に、音楽を学び始める香穂子と、これまでとは全く違う音楽の道を模索する土浦。
立場や状況の違いはあれど、まっさらな場所へ、新しく一歩を踏み出すことだけは同じ。
休日の今日は、新しく注文した音楽科の制服が届いたので、試着をして欲しいと理事長直々に電話が来た。着心地などの注文があれば、極力意見に沿うよう努力したいということだったが、ある意味、土浦に対しての嫌がらせなのではないかと曲解してしまう。
……自分ですら、似合わないと思っていた音楽科の制服を試着した姿を香穂子に見られ、あれだけ盛大に笑われてしまっては。
「いや、でもさ。これでちょっと耐性ついたし。新学期始まってから、家の前で大爆笑で、学校行けない、なんて事態は避けられたわけだから」
「……お前、絶対当日も、指差して笑うだろ?」
「えええ?そんなことないよ~?」
間延びした語尾からして、全く説得力がない。盛大な溜息をついた土浦の横顔を、こっそりと覗き見て。
それまでとは違う、柔らかな笑顔で、香穂子は笑った。
「でも、これで。本当に私たち、春から音楽科の生徒だね」
一瞬虚を突かれた土浦が、軽く目を見開いて香穂子を見つめ返す。
「……ああ、そうだな」
ようやく、仏頂面だった表情を和らげて、伸ばした片手で香穂子の髪をくしゃりとかき混ぜた。
一年前には考えもしなかった、現在という名の、あれから一年後の未来。
香穂子があの羽根付き妖精に出会わなかったら。
そして、土浦が香穂子に出逢わなかったら。
絶対に、辿りつくことのなかった未来。
そんな、予想もしなかった……これから先も、全く先が見えないだろう未来へと踏み出そうとするのに、土浦から見る香穂子は、ただ、楽しそうに見える。
土浦よりもずっと、ずっと、今までと違う環境に身を置くことに不安を感じているであろうに、彼女が自分へ見せる姿は、どんな時も『楽しい』と『嬉しい』の感情で作られている。
……自分で選んで、覚悟も決めて。
もう、一つの迷いですら持ち合わせていないはずの自分ですら。
新天地に踏み出そうとする今は、どんなに打ち消そうとしていても、多少の不安の陰りが混じってしまうというのに。
「……お前、……強いな」
軽い足取りで、土浦の数歩前を歩く、香穂子の華奢な背中を見つめ、土浦が感心してぽつりと呟く。ふと足を止めた香穂子が、くるりと振り返った。
「私?」
「そう」
自分を指差して確認する香穂子に、苦笑する土浦が頷く。
考え込むように指先を頬に当てた香穂子が、何もない中空を見つめた。
「強い……強いのかな?私。全然、そんなことないと思うけど」
何事もなく、全てを受け入れているわけじゃない。
落ち込むし、へこむ。
不安だって、もちろんある。
……ただ、あまりそういう姿を土浦には見せたくないだけで。
本当に、土浦の励ましが必要なら、泣きつく覚悟も持っている。
それでも、ぎりぎりの限界が来るまでは、自分で努力する。
……簡単に、困難から逃げ出すような女なら、土浦に軽蔑されてしまうと香穂子は知っているから。
「でも、今の私は、強いとか弱いとか関係がないと思う。……自分の夢を叶える一歩を踏み出せる。その期待が、多分不安よりも大きいだけなんだよ」
一年前には、影も形もなかった、香穂子の夢。
リリと出会って、コンクール参加者たちと出会って。その出会いから生まれた、香穂子の新しい『夢』。
何もないところから始まって、漠然と生まれ出たものは、今きちんとした形になって、香穂子の人生の延長線上で待っている。
はっきりとした『夢』になったものを、『現実』にするためのあれこれが、音楽科に転科して始まる生活の中に、たくさん混ざっているのだ。
期待しない方が変だ。
「……聞いていいのか?」
「ん?」
「その、夢。……俺が聞いても」
躊躇いがちに尋ねた土浦に、香穂子は笑った。
そして、大きく頷く。
だって、これは土浦と一緒に歩いて行くから、生まれた夢。
彼が隣で頑張っていてくれなければ、絶対に叶わない夢だから。
「……いつか、土浦くんが指揮するオーケストラで。私がコンミスやるんだよ!」
……それは、困難なのかもしれない。
口にして、容易く叶う夢じゃないかもしれない。
ただ楽しいという気持ち一つで、素晴らしい音楽ができるわけではないと、音楽に触れて過ごしたこの一年間が教えてくれたから。
だけど、この夢が荒唐無稽な夢だとは香穂子は思わない。
夢という言葉の中に、どうしても叶えられないつかみ所のない夢と、いつか必ず叶うはずの目標としての夢の、二つの意味があるのなら。
香穂子が持つ夢は、どちらかに無理矢理に分類すれば。
いつか必ず叶うはずの夢だ。
「……壮大」
くく、と喉の奥で笑った土浦が、楽しそうに破顔する。
それを、怒るでも責めるでもなく、香穂子はにやりと笑って土浦の顔を上目遣いに覗き込んだ。
「まあ、コンミスは無理でも? 土浦くんの指揮するオケで、ヴァイオリン弾けるようにはなりたいな。そのオケにコンクールメンバーの皆も参加したりして。……そうなると、コンマスに月森くん?」
「……それはない。勘弁してくれ」
指先で額を押さえて、真面目に否定した土浦に、香穂子はいいと思うのになあと眉を寄せた。
「まあ、いいんじゃないか。それくらいでっかい目標持ってた方が、さ」
もう一度。
香穂子の髪を、片手でくしゃっと混ぜて。
土浦が、微笑んだ。
「やろうぜ、香穂。いつか、俺達のオーケストラを」
今まで足を踏み入れたことのない新天地へ、踏み出す不安と期待感。
まだまだ最初の一歩で。
大きすぎる夢を語ることも、きっと烏滸がましいのかもしれないけれど。
それでも、自分達は。
『それ』に向かうために歩き出す。
いつか必ず『本当』になる『未来』の約束を、叶えるために。
あとがきという名の言い訳
あくまで二人が音楽科へ転科、そして土浦の目標が指揮者という点だけに絞って書いてます。オフィシャルと矛盾がありましても、流してもらえれば幸いです。
まあ、それは他の全ての作品にも言えることなんですが……(^^;)


